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有田の陶磁史(177)

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前回は、磁器の創始に当たって、きっと中国人陶工は、有田に来たでしょうねって話でした。でも、そんな話をすると、当時各窯場で生産していた磁器はほぼ中国風ですから、中国人陶工がわんさかいたようなイメージをいだく方がいらっしゃいます。でも、それは少々ムリそうです。

 1630年代以前の磁器の文様は、窯場に関係なく中国磁器と類似するのは確かです。しかし、考えてみれば分かりますが、各窯場で生産した磁器の文様が、皆それぞれ違うわけではありません。別々の窯場とはいえ、文様には一定のパターンというか、共通性があると言うことです。これは、別に中国人陶工がうじゃうじゃ必要ないということを意味します。つまり、どこかの中核となる窯場で考案された文様を別の窯場で次々と写せば、別に中国人陶工でなくても描くのは簡単ですから。

 それから、こんなこともあります。もし、中国の陶工が直接絵を描くことが多ければ、中国と同じ図柄になる可能性が高いだろうと思います。「でも、似てるって言ったじゃん」って突っ込まれそうですが、実は、1630年代以前の磁器の図柄は、構図の中に使われるパーツ、パーツの文様は中国磁器と類似しています。しかし、その総体としての構図としては、ほとんど似ているものがないのです。

「いや、中国の景徳鎮窯や漳州窯の製品と、ほぼ同じ構図が描かれる初期伊万里も珍しくないでしょ?」というご意見もあろうかと思います。しかし、それはたぶん1640~50年代頃の製品です。その時期には、中国磁器の構図をほぼそのまま模倣するものが、多く見られるようになります。

 つまり、1630年代までは、中国磁器の文様を取り入れてはいますが、模倣しているわけではないのです。あるいは、中国人画工とかはいなかったのかもしれませんね。

 はっきりしているのは、中国人陶工集団が来たのではないことは確かです。ずいぶん窯跡の発掘調査もしましたが、中国風の構造の窯はおろか、窯道具すらありませんから。あくまでも、李朝の技術をベースとする窯場の中で、磁器生産をするには李朝の技術では不足している部分を補完する形で、中国風の技術が使われていますから。これに、例外はありません。

 それに、有田には朝鮮人陶工の子孫として知られる家はいくつもありますが、やっぱり中国人陶工の子孫という家系なんて聞いたことがありませんし。

 ということで、この件は、きっと磁器の創始には、少しだけ中国人陶工が来ていたのかもねっていうことにしときます。(村)

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