前回は、磁器の創始に当たって、中国人陶工が少しは有田に来たかもねって話でした。もう少し進めます。
ちょっと前に、磁器が創始された後も、1630年代までは陶器も併焼され続けたことに触れたかと思います。これは、おそらく磁器は陶器と違って原料が限定されるため、もしそれが無くなったら、いくら技術があっても意味な~いということでしょう。磁器ができる前は陶器生産で生計を立ててたわけですから、別にリスクを冒してまで止める必要もないですしね。
今でも観光用の歴史では、泉山で陶石が発見されて磁器がはじまったという記述を見ることがあります。だいたい、「そう伝えられている。」って書き方ですが、でも、これはウソです。有田にそんな言い伝えはありません。これは、『金ヶ江家文書』や『家永家文書』にある、泉山を発見して最初は白川の天狗谷に窯を築いたみたいな内容の記述が元になってます。「だからそう伝わってんだろ。」というご意見もありそうですが、少々お待ちください。実は、別にその文書の記述の中には、泉山ではじめて磁器原料が発見されたなんてことは、ひと言も書いてありません。単純に、泉山が発見された後、最初は天狗谷に窯が築かれたという内容なのです。ですから、泉山発見以前に別の場所の原料で磁器が生産されていたとしても、文書の記述とは1ミリどころか、1ミクロンたりとも矛盾しません。
では、どこの原料を使ったのかということですが、陶片の胎土分析で陶石由来のものが使われたことは判明しています。現在もう少し詳しいことを鋭意調査中で、しゃべりたいのはやまやまですが、まだ確証がないので、ここではとりあえず触れずにおきます。少なくとも、泉山の所在する町の東部は、当時はまだ人も住んでないような山奥ですので、例え陶石を発見できても窯場まで重い陶石を運ぶ手段がありません。ですから、まあ、当時の窯場のほとんどが分布していた、町の西側の地域で完結していたと考えるべきでしょうね。
そうやって、ボチボチ磁器が生産されていたのですが、しばらくすると、本当に原料が不足してきたようです。これについては、例の家永正右衛門の泉山発見の事績を記した通称『家永家文書』で触れられています。詳しくは次回ご紹介してみたいと思いますが、このくだりは、正確には『皿山代官旧記』の「安永弐(1773)巳年日記」にある「乍恐御詫言申上口上覚」という文書の一部で、家永壱岐守(正右衛門の祖父)の子孫が、佐賀藩庁にあてて、自分の先祖が泉山の発見者であると訴え出たものです。泉山の利権はおいしいですから。
ということで、次回はその内容について触れてみたいと思います。(村)