前回は、『酒井田柿右衛門文書』の中の、「親柿右衛門(喜三右衛門のこと)」ではじまる文書の中で、“赤絵”と“色絵”という表現が混在しており、それって同じことなのでどっちゃでもいいので、テキトーに書いたんかいなってところで終わってました。少なくとも、通常はその違いを指摘する見解等はまずありませんので、結果として、皆さまテキトー説ということになりますね。
でも、本当にそうっ?ってのが本日の話です。アバウトな記憶じゃ理解不能なビミョーな話なので、もう一度、その文章を引用しときます。
「赤絵者之儀、釜焼其外之者共、世上くわっと仕候得共、某手前ニ而出来立申色絵ニ無御座、志ゝ物之儀者、某手本ニ而仕候事。」
まず、この文書のシチュエーションをお話ししておきます。この文章は喜三右衛門が南川原山に移り住んだ後のことです。そして、「親柿右衛門」ではじまりますので、喜三右衛門の子である、2代か3代の柿右衛門が書いたことになります。ちなみに、初代は寛文6年(1666)に亡くなりましたが、2代はそれに先立つ寛文元年(1661)年に亡くなっており、3代は寛文12年(1672)に亡くなっています。
さて、「親柿右衛門」を書いたのは2代なのか3代なのかですが、同じ文書の続きに、初代が隠居して子に家職を譲った頃のこととして、次の記述があります。
「世上焼物大分大なぐれニ而、大分之雑佐(作)を仕込申候。上手之物皆悉捨ニ罷成、しばらく家職を相止罷有候。然処ニ今程焼物直段能罷成、…」
というように、初代から家職を譲られたけど、大不況でしばらくやきもの止めてたけど、最近持ち直したとあります。下がって、上がってですね。
ところで、初代の喜三右衛門は、赤絵を開発した頃には南川原山ではなく、年木山にいましたが、この年木山の当時の窯場は、すべて発掘調査しています。具体的には、1640~50年代頃の窯場としては、楠木谷窯跡、枳薮窯跡、年木谷3号窯跡などがあります。この中で、年木谷3号窯跡はほぼ初期伊万里様式のみの窯場、枳薮窯跡はごく少量古九谷様式の製品も焼いていますがほぼ初期伊万里様式の窯場ですが、楠木谷窯跡は大量に古九谷様式の製品も焼成している窯場です。ちなみに、枳薮窯跡と楠木谷窯跡は、現在では別の窯跡として扱われていますが、実は楠木谷窯に2基ある1号窯と2号窯の距離よりも、1号窯と枳薮窯跡の方が近距離にあります。つまり、焼いている初期伊万里様式の製品もほぼ同じですので、楠木谷窯跡と枳薮窯跡は、もともと同じ窯場であったと捉えるべきだと思います。
よって、喜三右衛門がいたのは楠木谷窯跡と考えて間違いありませんが、楠木谷窯跡に限らず年木山の窯場は1650年代後半の中ですべて廃窯、つまり年木山という山そのものが消滅しています。
回りくどかったですが、ということは、喜三右衛門が南川原山に移り住んだのは、1650年代後半ということになります。ところが、2代は寛文元年(1661)年に亡くなっていますので、南川原山で喜三右衛門が家職を譲り、しばらく家職を止め、また景気がよくなったとするには、あまりにも生存期間が短すぎます。ですから、必然的に「親柿右衛門」の文書は3代のことと考えられるのです。
ということは、「赤絵者之儀、釜焼其外之者共、世上くわっと仕候得共、」の時期は、少なくとも赤絵が開発された後ですので正保4年(1647)以降で、喜三右衛門が亡くなるのが寛文6年(1666)ですから、それ以前ということになります。さらに、南川原山で製陶した後、隠居して子に家職を譲らないといけませんので、亡くなる直前ではないでしょう。そう考えると、喜三右衛門の南川原山時代の活躍時期は1650年代後半~60年代初頭頃がメインでしょうから、その頃にはすでに赤絵製品があふれていたわけですから、可能性が高いのは1650年代前半頃でしょうね。
ということで、今日も、あんまり進みませんでしたが、この続きはまた次回。(村)