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有田の陶磁史(180)

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前回は、引用した『家永家文書』の後半部分を説明していたら、肝心の前半にたどり着きませんでした。本日は、前に戻って読み直すのはめんどくさいでしょうから、もう一度全文を引用しつつ、前半の話をします。

 

(前略)尤有田郷小溝原暫在宅仕陶器焼立候ニ付、従 直茂様出精仕、末々相続之儀為蒙 仰出由ニ御座候得共、土払底仕、焼立不相叶ニ付、壱岐守孫正右ヱ門方々土床探促仕、当皿山え分ケ入、只今之土場を見出シ、白川山天狗谷と申所ニ焼物釜壱登リ塗立、南京焼仕候(後略)

 

 という文書でした。

 家永壱岐守が有田郷の小溝原にしばらく住んで陶器を焼いてたところ、鍋島直茂から先々まで精を出して続けるように言われたが、土がなくなって焼くことができなくなったというような内容です。

 この中で鍋島直茂とは、ご存じの方も多いと思いますが、初代佐賀藩主鍋島勝茂の父親で、藩祖と呼ばれた人ですが、元和4年(1618)に亡くなっています。したがって、この内容は、それ以前のことということになります。

 ここでは“陶器”を焼いていたとか「土払底仕」とあるので、かつての研究では、本当に陶器の原料がなくなったと解釈されていました。でも、ちょっと待った!陶器の土がなくなるなんて、そんなバカな。そこらじゅうあるでしょ。

 では、どう解釈すべきか?前回説明したように、江戸時代には、陶石だって土と呼ばれていました。泉山も磁石場や石場ではなく、土場でしたし。つまり、なくなったのは磁器原料のことで、“陶器”というのは磁器のことと考えることもできそうです。でも、はたして、そう考えて、別の箇所でもちゃんと矛盾のないストーリーを描けるでしょうか?

 このことは、大昔に説明しましたが、江戸時代には、磁器という名称はなく、磁器も含めて陶器と呼ばれていました。なので、“陶器”を磁器のことと考えることは差し支えありません。それに、“陶器”の原料がなくなって探してて泉山で「南京焼」、つまり、中国風磁器の原料を発見したわけですから、逆に、やっぱなくなったのは磁器原料のことと考えないとつじつまが合わないでしょう。そうすると、文書の内容は、磁器がはじまってから後、直茂が亡くなる前の話ということになりますので、おそらく1610年代中頃のことを書いていると解釈できそうです。

 つまり、この文書の内容を信じれば、やはり泉山発見以前から別の原料で、磁器が焼かれはじめていたことになるのです。ただし、あくまでも当初の原料自体がなくなったのは、1610年代中頃ということではないですよ。直茂に末々も精を出して続けるように言われて焼いていたけど、原料がなくなってきたという解釈も成り立ちますので。

 次回からは、このあたりについて、ご説明したいと思います。(村)

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