前回まで、『家永家文書』の一節について、解釈を加えていました。おそらく1610年代中頃に、鍋島直茂から末々まで精を出して磁器を焼くようにとの言葉をいただいて続けていたものの、だんだん原料が枯渇してきたのでは?だから、枯渇してきた時期については、さらに後の時期ではってところまででした。
まあ、家永壱岐守の子孫によって提出された後世の文書ですから内容のすべてが必ず真実とは限りませんが、でも、昭和期の研究者ですら泉山が最初の磁器原料の供給地だと考えていたわけですから、それ以前から、別の原料で磁器が作られていたなんて話を江戸時代に創造する方が難しいでしょうね。ですから、あながち絵空事とも言えないように思います。
ところで、陶器と磁器を併焼した1630年代以前の窯場では、一貫して、陶器も磁器も焼き続けられています。ですから、窯跡の発掘調査成果を見るかぎり、磁器の原料がなくなったという事実はありません。
では、どのように考えるべきでしょうか?
例えば、金ヶ江家や家永家が関わった可能性の高い小溝窯の一角を占める小溝下窯跡では、失敗品を捨てた物原では、白色の良質な素地を用いた染付製品が一般的です。ところが、最終焼成品である窯体の焼成室床面から出土する染付磁器は、青みの強いやや粗質な感じの製品ばかりでした。また、小溝上窯跡では、相対的に古い1・2号窯に比べ、新しい3~5号窯では、やはり粗質な製品の割合が急増し、明らかに磁器の中では下級品である砂目積み製品の割合もかなり高くなります。同様に、向ノ原窯跡では、最後に近い染付製品の中には、陶胎を用いたものすら見られるようになっています。
こうしたことから察すると、どうやら完全に磁器の原料がなくなったというよりも、良質な原料が少なくなってしまったと解釈する方が妥当性はありそうです。これは泉山でも同様ですが、天然の原料ですから、やはり全部が均質ではなくかなりバラツキはあります。例えば、現在の泉山でも、器などの製品とタイルなどでは、陶石を取る場所は異なっています。このように原料の質の低下が切実になってきたため、完全に枯渇する前に、あちこち探し回ったということではないでしょうか。
その探し回った時期ですが、もちろん、そんなもんどこにも記されていませんので、古文書等では分かりません。ただ、泉山を発見して最初に築いた窯が天狗谷窯という点が大きなヒントになります。というのは、天狗谷窯跡は、昭和40年代と平成11~13年度の2度発掘調査を実施しており、かなり状況が明らかになっているからです。フツーに考えれば、泉山の発見と天狗谷の開窯時期の間にそれほど大きな乖離があるとは思えませんので。ただし、前にも書きましたが、問題は、全体を通じて矛盾のない合理的なストーリーが描けるかということです。
ということで、次回はこのあたりについて触れてみようかと思います。(村)