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有田の陶磁史(183)

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前回は、おそらく泉山の発見は1630年前後頃だろうって話をしました。1610年代中頃に、おそらく金ヶ江家や家永家が関わっていた小溝上窯跡あたりで磁器が創始され、陶器とともに併焼されていましたが、だんだん良質な原料が取れなくなってきたためあちこち探し回り、1630年前後頃に泉山で良質で豊富な原料を発見。そのため、1630年代前半頃に白川天狗谷に窯を築いて、泉山の陶石を用いて磁器専業体制が模索されたというストーリーです。

 これまでの長い長い磁器の創始の話から脱してようやく1630年代の天狗谷開窯までたどり着きましたが、さあ、この後どうなるんでしょうか。

 

 その前に、おそらくこの一連のストーリーに関連する話と思われるものに触れておきます。ご存じの方も多いかと思いますが、例の百婆仙です。現在では、ちまたではかなり尾ひれの付いた話が出回っていますが、実は、大本となる史料は、有田・稗古場の報恩寺に立つ通称百婆仙の法塔の碑文しかありません。宝永2年(1705)に没後50年を期して曾孫により建てられたもので、正面に「萬了妙泰道婆之墖」と記され、その他の面に百婆仙の生涯とか事績などが刻まれています。ただし、現在では摩耗して、ほとんど読めませんが、久米邦武『有田皿山創業調子』などに内容が掲載されています。

 それによると、深海宗伝と妻の百婆仙は、文禄の役の際に、武雄領主の後藤家信が、武雄の廣福寺の別宗和尚に命じて、連れ帰らせたと言います。そして、廣福寺の門前に数年間住んだ後、武雄の内田で陶器を焼きました。宗伝は元和4年(1618)に亡くなったため、その後、百婆仙は内田を捨てて有田の稗古場に移り住んで磁器を焼いたところ、高麗人たちも百婆仙を頼ってやってきたと言います。有田に移住した理由は、黒髪山は白磁の磁石に秀で、天から賜った陶地だからだそうです。その後、百婆仙は明暦2年(1656)3月10日に亡くなっています。

 

 これが百婆仙が有田に移り住んだ経緯の概要ですが、今では、移り住んだ人数とか、朝鮮半島での出身地とか、宗伝の元の名前とか、その他いろんな尾ひれが付いています。

 人数については、割と昔の昭和11年(1936)発行の『肥前陶磁史考』に960人を率いてとありますが、どこから出てきた人数やら?それに、碑文では率いてというよりも、頼って集まってきたという感じです。

 出身地については、碑文に「高麗深海人」とはありますが、さあ、どこなんでしょうね。こちらも『肥前陶磁史考』では、「金海(慶尚南道金海市)」とありますが、韓国語読みで「深海(simhae)」と「金海(gimhae)が似ており、金海も製陶地だからだそうです。そりゃ、いくらなんでもこじつけでしょう。製陶地であった時代もちょっと違います。

 宗伝の元の名前については、何でも、「金泰道」なんだそうです。韓国発の割と最近のマユツバ物説です。たぶん、韓国ドラマ「火の女神ジョンイ」が元じゃないかと思いますが、ネット上でフィクションと史実がゴチャゴチャにされて広まったようで、今では孫引きの孫引きで拡散して、そうだと思い込んでいる方が結構いるみたいです。まあ、火のない所に煙は立たないといいますが、まったく火のない所に立った煙というところでしょうか。「萬了妙泰道婆之墖」にある文字から取ったようですが、この場合、「「萬了妙 泰道婆 之墖」と切るんじゃなくて、「萬了(道号)妙泰(法号)道婆(位号)之墖」です。「金」については、さらに意味不明。

 ただ、この百婆仙の話で最も問題となるのは、いつ武雄の内田から有田の稗古場に移住したかってことです。次回は、そのあたりについて触れてみたいと思います。(村)

 

写真 報恩寺の「萬了妙泰道婆之墖」


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