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有田の陶磁史(184)

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前回は、百婆仙について話しをしていました。本日は、それが有田の窯業史のストーリーの中で、どのあたりの時期にはめ込めるのかというあたりについて触れてみたいと思います。

 百婆仙が有田に移住した理由については、唯一の原典である「萬了妙泰道婆之墖」には、「黒髪山秀白玉堆、以為天賜陶地」とあります。つまり、黒髪山は白磁の磁石に秀で、天から賜った陶地であるみたいな意味です。有田の方ならよくご存じのことと思いますが、黒髪山はちょうど泉山の北側にそびえる、有田と武雄市山内町の境目にある標高500m強ほどの流紋岩質の岩山です。もっとも泉山も標高100mほどのところにありますので、比高差は400mくらいでしょうか。泉山自体も同じ流紋岩が熱水によって陶石化した一連の山ですので、碑文で黒髪山と表現されていても、あながち間違いではないのです。つまり、百婆仙が有田に移住したのは、泉山が発見されて以後のことと考えるのが自然です。

 では、百婆仙は泉山が発見された後に移り住むような必然性というか、歴史的にそんなストーリーははたして描けるのでしょうか。

 百婆仙一族がもともと製陶に従事していたという武雄の内田では、小峠窯跡や古屋敷窯跡、大谷窯跡をはじめ7つくらいの窯跡が発見されています。実は、このあたりの窯跡では、有田と同様に陶器だけではなく、初期の段階から磁器生産も行われています。つまり、百婆仙たちは、有田に移住する前から、すでに磁器を生産していた可能性は高いのです。

 ただ、磁器を焼いていると言っても、有田のようにたくさん焼いているわけではありません。それに、使用した陶石の耐火度の問題なのか、碗などはやけにぐにゃぐにゃにへたったものが多いのです。まあ、原料の量的にも質的にも問題があったってことでしょうね。ですから、泉山で豊富で良質な原料が発見されたと知ったら、そりゃ、一大決心をしたくなる気も分かります。

 その時期については、先日お話ししたように、泉山が発見されたのが1630年前後の可能性が高いわけですから、その後ということになります。しかし、後日説明いたしますが、寛永14年(1637)には窯場の整理・統合という事件があり、有田や伊万里の窯業界から、826人もの陶工を追放しているわけです。ですから、その時やそれ以後、よそから陶工集団が大挙して押し寄せるというのも考えにくいのです。したがって、泉山の発見以後、1630年代前半頃までの可能性が高いように思われます。

 ということで、本日はここまで。(村)

 

写真 泉山磁石場から見た黒髪山方面

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