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有田の陶磁史(185)

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前回は、百婆仙一族が有田の稗古場に移住したのは、1630年前後の泉山の発見以後で、1630年代前半くらいまで間の可能性が高いのではというところで終わってました。本日ももう少しこの話題を続けます。

 以前、有田で最初に成立した窯場に関して、南川原皿屋と小溝皿屋がほぼ同時に成立したという話の中で、三川内の『折尾瀬村三河内今村甚三郎蔵書写』という古文書をご紹介したのを覚えておられるでしょうか。今村家に残る古文書類を集めて、最終的に文久2年(1862)にまとめて書き写したものです。さまざまな時期の内容を含んでいますが、17世紀の古い内容の記述は、おそらくすべて元禄6年(1693)に今村如猿が調べたものを元にしていると思われます。ただし、その後、時々の今村家の子孫なりの独自の解釈が加わっているようなので、整合性の取れない部分も多々見られます。

 この中に、天明6年(1786)に書かれた文書を天保14年(1843)に書き写したものがあり、「寛永六年(1629)内田ノ皿山ニ而初テ染付焼物出来ル」という記述が見られます。これも、先の南川原皿山や小溝皿山について触れる文書に、内田皿山という記述も並列して見えますので、おそらくもともとは今村如猿の調査に基づくものだと思われます。如猿はどのような形で記録として残していたのかは分かりませんが、少なくとも、如猿の子孫の解釈では、これを染付磁器の成立と捉えているようなので、なかなかそのまま信じることが困難です。

 でも、これを染付磁器の創始ではなく、文字どおり、武雄の内田ではじめて染付磁器が焼かれた年と解釈すればどうでしょうか?ちょうど有田で泉山が発見されたかどうかという時期と重なりますから、なかなか良さげな気もします。

 つまり、ストーリーとしては、内田では1629年にようやく磁器の生産に成功はしたものの、原料の関係で、あまり満足のいく結果は得られなかった。ところが、そこに有田で豊富で良質な原料が発見されたという噂が届いた。そこで、百婆仙一族は、有田に移住して、泉山からも、また、その原料を使った模索が行われていた白川の天狗谷窯にもほど近い稗古場に、窯を築いて磁器を生産することにした。

 いかがでしょうか?割とすっきりとしたストーリーが描けるでしょ。当然、磁器を焼くために移ったんですから、稗古場窯跡では、天狗谷窯跡と同様に陶器は焼かれていません。

 ところで、金ヶ江三兵衛が承応2年(1653)に多久家に提出した文書には、有田に「所ゝゟ集り申罷居候者百廿人、皆ゝ某万事之心遣仕申上候」と記しており、有田にいろんな所から120人、もちろんこれは“窯焼き”、今で言う社長の人数でしょうが、それだけ集まってきたと言いますから、その中に百婆仙一族も含まれていたのでしょう。そう言えば、「萬了妙泰道婆之墖」の方では、百婆仙を頼って多くの人が集まってきたことになってましたね。まあ、深海家からすれば、自分とこの先祖を頼ってって話になるでしょうね。

 話を戻しますが、三兵衛の文書では、全員三兵衛の統率下に置かれていたとありますので、案外百婆仙なんかも、金ヶ江三兵衛らに、泉山陶石を使った磁器の焼き方も教わったのかもしれません。それに、何か百婆仙の子孫である深海家と金ヶ江家は、関係が深かったようにも思えますから。というのは、金ヶ江家はおそらく1650年代後半~60年代はじめ頃の間に、白川から稗古場に移ったと思われますし、稗古場窯のそばにある観音山には、左右に「金ヶ江氏」「深海氏」と刻まれた「祭礼廟」なる石碑も残ってたりします。

 ということで、百婆仙一族の一連の話によって、磁器の創始後、有田にどのようにして人々が集まってきたのかということの一端を知ることができるのです。(村)

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