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有田の陶磁史(186)

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前回まで、百婆仙一族の有田移住などについてお話ししました。磁器の創始に関わったと思われている方も多いので、1630年代前半頃というのは意外だったかもしれません。でも、百婆仙一族の移住の史料から、有田にどうやって人々が集まってきたのかの一端を知ることができます。

 人それぞれの事情はあるんでしょうが、磁器創始後に開窯する窯場を大別すれば、おおむね小溝窯跡や天神森窯跡の位置する西側の窯場は泉山発見以前、泉山に近い東側の窯場は泉山発見以後にできた窯場ではないかと思います。ですから、西側の窯場では、磁器とともに大量の陶器が生産されていますが、東側の窯場ではまったくないか、ごくわずかの陶器しか焼いていません

 これに少し関連しそうな記述が、『金ヶ江家文書』の文化4年(1807)の「乍恐某先祖之由緒を以御訴訟申上口上覚」にあります。それによると、泉山を発見して、天狗谷で焼いた後、上幸平山、中樽奥にも百軒ほどの窯を築いたというようなことが記されています。有田の地理をご存じでない方には、なかなか位置関係が分からないかもしれませんが、泉山の南西、天狗谷窯の南東あたりにあたります。

 この百軒ほどの窯の記述から、以前は、骨董好きの方にはよく知られている百間窯(武雄市山内町)のことと考えられていました。確かに百間窯も含むんでしょうが、これは百間窯という特定の登り窯を指すのではなく、登り窯の焼成室100室、つまりたくさんの部屋を造ったという意味だと解釈する方が蓋然性が高いと思います。

 具体的には、上幸平山とは、成立時期的には少し遅れますが山小屋窯跡、中樽奥とは百間窯跡や窯ノ辻窯跡、ダンバギリ窯跡などの位置する板ノ川内山、小樽1号窯跡や小樽2号窯跡のある小樽山の窯場のことと考えられます。これらは、すべて同じ道筋に位置しています。つまり、こうした東側の初期の窯場は、泉山発見以後の窯ということになるのです。

 ところが、あまりにへんぴな所なので止めたといいます。時期的は記されていませんが、先ほどの窯場は、すべて1650年代前半頃までには廃窯となっています。金ヶ江三兵衛が亡くなったのが明暦元年(1655)ですから、何となくしっくりくる年代ではないでしょうか。

 言い忘れましたが、もちろんこれは金ヶ江三兵衛が、直接窯場を開いたということではないと思います。前回ご紹介しましたが、三兵衛が「皆ゝ某万事之心遣仕申上候」ということですから、リーダーとして世話していた人々が窯を築いたという意味だと思います。

 そして、へんぴな所なので止めた後、村々、所々に窯を移したようであるとしています。このあたりは時代が飛んでしまいますので後日詳しく説明しますが、要するに、窯業地をぎゅっと集約して、新しい山を築いたりしたということです。

 ということで、本日はここまで。(村)

 

挿図 関連窯跡の位置図

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