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有田の陶磁史(187)

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前回は、磁器創始後に開窯した窯の成り立ちなどについて、いくつかの例をご紹介しました。では、こうやって膨らんできた窯業地有田のその後はどう展開するのでしょうか?本日からは、そのあたりについて話していこうかと思います。

 

 磁器の創始後、天神森窯跡や小溝上窯跡を中心として、主に西側の地域に急速に窯場が増加しました。磁器創始以前の窯場も小森窯跡を除いて、引き続き窯場が継続していますが、ちなみに磁器創始後の窯場を列挙してみると、北から、弁財天窯跡、獅子川窯跡、迎原高麗神窯跡、迎原窯跡、山辺田西窯跡、登辻窯跡、清六ノ辻1号窯跡、清六ノ辻大師堂横窯跡、清六ノ辻2号窯跡、小溝中窯跡、小溝下窯跡、外尾山窯跡などがあります。こうした窯跡は、おそらく多くは泉山で陶石が発見される以前に成立した窯場と推測されます。

 一方、町の東部に築かれた1630年代以前の窯場としては、西から猿川窯跡、稗古場窯跡、小樽2号窯跡、小樽1号窯跡、百間窯跡などがあります。こうした窯場は、すべて武雄から有田への古い道沿いにあり、ほとんど陶器は生産されていません。おそらく、ほとんどは泉山発見後、その噂を聞きつけて移り住んだ人々によって築かれた窯場だと推測されます。

 このようにだんだん窯業の街としての規模が膨らんだわけですが、残念ながら、それを記すような文書類等はまるでありません。もっとも、西側の地域については、結構栄えていたことは間接的には分かります。

 

 と言うのは、窯業とはまるで関係ありませんが、有田には寛永のはじめ頃には古木場という地区に金山があり、寛永4年(1627)にそれを幕府の隠密が探りにきた記録があります。古木場地区は、東にひと山越えると佐賀藩内でも私領である武雄鍋島家領で、南は分水嶺を境に大村藩の波佐見と接する場所です。

 それによると、隠密本人は、金山の家屋が500軒ほどと算段しましたが、地元では700軒あると言っていたそうです。町作りが美事で、城下町のようであると記しています。人口も6,000~7,000人もいたと言います。ただし、山掘り人数はおよそ100人ほどとしてますので、6,000~7,000人とは、鉱山周辺だけとはちょっと考えにくいように思います。有田郷全体という可能性も皆無ではありませんが、城下町みたいという点から推測すると、有田郷全体というのはちょっと違和感もあります。

 この古木場の人の住める平地は小溝窯跡や天神森窯跡のある南原まで一続きで、途切れることなく住宅地が続きますので、想像するにこのあたりまでのことの可能性はあります。当時は、同じ曲川の一部でしたし。このあたりは、磁器が創始されてから急拡大した場所ですから、まだ新しい家も多かったはずです。隠密が伊万里方面から来たとすれば、途中通過する場所でもあります。これより先(西)になると、古くからの農村地帯ですから、城下町というにはちょっと毛色が違う気がします。

 

 余談ですが、もしそのあたりのことだったとすれば、現在の人口が8,000人ちょっとですが、年々田んぼを潰して宅地化されてきている場所ですので、たぶんちょっと前の人口と400年前の人口が同じくらいだったのではないでしょうか。ちょっと時代は下がりますが、享保の改革の一環として調べられた享保6年(1721)の肥前国の人口を現在の人口を比べても3分の1以下に過ぎませんので、そう考えると、やはり相当栄えていた場所だということが分かります。

 一方、寛永4年と言えば、まだ泉山は発見されてなかった可能性が高い時期です。ですから、東側の地区には、まだほとんど人は住んでいなかったはずです。というか、『金ヶ江家文書』などによると、田中村と言って、家が数軒あった場所のようです。確かに、正保(1644~1648)の『肥前国絵図』では、田中村は見えませんが、東側の地区ではいくらか農地のあった岩屋川内村だけは描かれています。実はこの国絵図は、幕府に提出されたのは正保ですが、最初に作成されたのは慶長12年(1607)~17年(1612)頃です。ですから、隠密の頃にも増してまだ窯業もしょぼい頃ですから、そんなもんに関心が持たれているはずもありません。

 

 ということで、もう少し金山がらみで触れたいことがありますが、長くなるのでまた次回。(村)

 

挿図 古木場金山の位置図

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