前回は、寛永4年(1627)に古木場の金山を探りにきた、隠密がらみの『幕府隠密復命書』から、当時の有田の様子を探ってみました。町作りが美事で城下町のようってことですので、きっと磁器の生産がはじまって、どんどん人が集まってきて新しい家が建ち並んでいたんでしょうね。ということで、本日はその続きですが、最初にお断りしておきますが、今回は単なる妄想です。
この古木場金山では、寛永2年に金や銀が採掘されはじめ、翌年まではよく採れたようです。ゴールドラッシュですね。ところが、その後は鳴かず飛ばずで、2、3年後、たぶん寛永4年の終わり頃にはあえなく廃坑になったようです。するとどうなったか?当然、金山労働者はクビになったわけですが、まあ、いかにもありそうな話ですが、借金を抱えて鉱山の周囲に巡らした柵から出してもらえない人たちが続出したとか。
つまり、遅くとも寛永5年(1628)年のはじめ頃には、100人ほどもいた金山の労働者は職を失いましたが、よそに移ろうにも有田から出してもらえない人たちもいたということです。この人たちのその後についてはまるで不明です。ちょうど磁器生産が盛んになった頃ですので、製陶業に転職した人もいたかもしれませんね。この頃だと、まだ藩が窯業への参入に関してあれこれイチャモンつけるような時期でもありませんし。
それにしても、です。この年代って、何か気になりませんか?
そうです。1630年前後と言えば、泉山の発見です。陶工が発見したことになってますが、発見はいいとしても、その後、誰が掘ったんでしょうか。陶工はやきものを作るのが仕事であって、山を掘るのは本業ではありませんから。それに対するのは土の塊じゃなくて、硬い岩の山ですからね。ところが、偶然にもその頃、石の山を掘るのに適した人たちが有田にいたんですね。そう、元金山労働者です。
そう言えば、30年ほど前まで、泉山磁石場ではまだ山を崩して採掘が行われていました。その頃には、サイレンとともに発破でドッカーン!ってやって、その後重機も使うものの、やはり採石には石を砕いたりなどの手作業も多かったです。
実は、その作業員の人たちは、昭和40年代の天狗谷窯跡の発掘調査の際にも掘削の精鋭部隊だったそうで、ものすごくさばけたといいます。それで、天狗谷のA窯跡には、隣接する丘陵斜面からばかでかい岩が転び落ちて窯体を直撃していたそうです。普通の窯跡の発掘調査だと、重機は入りませんし、人力で動かすのはムリなので、その時点でジ・エンドです。ところが、その作業員の人たちは岩の目を見るのに慣れてるので、楽々と割ってしまったそうです。こういう石の目を把握できないと、泉山での採石もできなかったでしょうから。
ということで、話は戻りますが、金山労働者諸君が関わったとしたら、泉山で陶石を掘るくらいお手のものだったでしょう。泉山も古木場も同じ黒髪山系の流紋岩質の岩山ですしね。
いや、まったく証拠はないので、今日の話はあくまでも妄想ですよ。でも、あり得そうな話だと思いませんか?(村)