前回は『家永家文書』から、金ヶ江三兵衛が日本人を追放して欲しいって願い出たのでやばかったけど、家永家の由緒をもって多久美作守の許しを得て、当時の代官の山本神右衛門に届け出たって話をしてました。そして、山本神右衛門重澄は、有田の陶磁史にとって、とっても重要人物ですので、今回は少し詳しく触れてみたいってところでした。
さて、この神右衛門さんですが、生まれは天正18年(1590)です。ですから、豊臣秀吉が小田原城を攻めて天下が統一され、徳川氏が関東に移封された年ですね。元の名字は中野さんですが、この中野家は武雄市朝日町中野から名乗ったもので、武雄の塚崎の地頭職であった後藤氏から分かれた一族です。ちなみに、重澄の親の神右衛門清明は父親が戦さで亡くなった後、幼少期には後藤貴明の塚崎の館で育てられています。この塚崎の館とは、今の武雄高校の場所にありました。
血筋というか、この重澄の親の清明もやんちゃなお方で、この二人、たとえ藩主や上司の命令であろうが、それがさきざき真に藩主や藩のためになると思えば、たとえ一時は騙そうが隠そうがやってしまわないと気が済まなかったっていう、とっても扱いにくい性格してます。滅私奉公っていえばそうですが。本来、命令違反を繰り返せば罰せられそうなもんですが、ちゃんと結果を残すもんだから、罰どころか逆に評価が高まったんだから手が着けられません。そのムチャぶりは、清明の残した「兵法など習ふ事無益なり、目を塞ぎ、一足なりとも踏込みて討たねば役に立たぬものなり」という言葉からもよく分かります。ちなみに、例の『葉隠』の有名な一節である「武士道といふは、死ぬことと見附たり。」もこの清明の項目に出てくる内容です。こういうムチャぶりな家系だったことは覚えておいてください。結構重要です。ちなみにこの清明は、最終的に伊万里代官として伊万里市の桃川に居住し、生涯を閉じています。
重澄の方は、慶長17年(1612)に知行物成髙91石5斗の山本助兵衛家の養子となっています。91石5斗と言っても、多いんだか少ないだか分かりませんね。10斗が一石なので、915斗ということになりますが、米俵一俵が4斗ですので、228.75俵ということになり、米俵一俵は60kgですので、13,725kgということで、13.725tです。逆に、ますますピンとこなくなりましたね。もとい…。1斗は10升ですので、9,150升となり、よく食べる人が一回1合、それを3食食べたとすると年間では1,095合、1,000合が一石ですので、だいたい91人が一年に食べる量だということになります。一見そんなには食べたら腹一杯になりそうなので多そうにも思えますが、当時はこの米を売って他のモノを購入して暮らすわけですから、それほど豊かな家柄でもなさそうです。まあ、佐賀藩自体が大貧乏でしたけど…。
佐賀藩の藩士は15の大組に配分されており、その大組頭は家老や着座という上級家臣が務めましたので、石高の平均は軽く1,000石を超えてました。それで、その下に140の組があって、その組頭クラスが平均110石くらいですから、まあ、このクラスということでしょうか。ちなみに、ここから神右衛門重澄さん、まだ当時は正式にシステムはできあがってませんでしたが、最終的に家老に次ぐ着座クラスに出世してますので、やはりご立派です。
与太話をしてたら長くなってしまいましたので、この続きは次回ということで。(村)