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有田の陶磁史(193)

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前回は、中野・山本の神右衛門父子はムチャな家系だということと、慶長17年(1612)に重澄が山本家の養子となったってことを話してました。ムチャな家系であることが重要なので覚えててくださいと言いましたが、この山本家との養子縁組に関わった人間関係も窯業との関わりを考える上で重要です。

というのは、両家の仲立ちをしたのは、多久長門守安順と当時寄親として仕えていた安順の養子茂富だからです。つまり、バリバリ多久家と重澄は関係が深いってことをご承知おきください。ちなみに、“寄親”とは、武士の一団を率いる組頭のことで、それを親子関係になぞらえたもので、その率いられた方は“寄子”ということになります。

さらに、慶長19年(1614)に長男が誕生した際にも茂富が名付けていますし、寛永16年(1639)に初孫を授かった際にも、多久家二代領主茂辰から彦仁王という名を授かっています。実は、この名前は茂辰や安順の幼名ですので、ずいぶんな大盤振る舞いです。

ところで、神右衛門という名前のことですが、当然のことながら、重澄の親である神右衛門清明の存命中は名乗れるはずもありません。清明は慶長19年(1614)から伊万里代官として、伊万里の桃川に居住していましたが、元和6年(1620)に66歳で桃川で死去しています。重澄が神右衛門の名乗りを許可されたのは翌年の元和7年のことですが、当時は、上の方から許可されて可能となるもので、勝手に名乗ることはできませんでした。

この神右衛門重澄は、寛永元年(1624)や同5年(1628)の大坂城普請では普請奉行の一人として加わり目立った活躍をするなど、ますます藩内でも頭角を現してきますが、有田近辺との関わりが見られはじめるのは、寛永12年(1635)からです。この年、“西目山津辺迄一通之横目 伊万里有田川古郷耕作之気遣”やたぶん伊万里大橋の架かる伊万里市の楠久あたりのことだと思いますが、“牧奉行”に任じられています。

まあ、馬を放牧していた“牧奉行”くらいは分かりますが、何だかよく分からない長ったらしい役職名が並んでます。でも、分解して見ると多少理解しやすくなります。

“西目山津辺迄一通之横目”とは、“西目”とは、城のあった佐賀より西ということで、杵島郡、藤津郡、西松浦郡あたりのことを指します。現在では市になっているところは全部郡を抜けていますが、杵島郡は武雄市や白石町周辺、藤津郡はその南側の鹿島市や嬉野市周辺、西松浦郡は伊万里市や有田町あたりになります。また、“山津辺迄”とは山林とか港で、“一通之”は一通りのことですから全般的なということでしょうか。“横目”は後には“目付”という名称に変わりますが、監察を担った役目で、現地の監督とか警察権をつかさどりました。

次に、“伊万里有田川古郷耕作之気遣”は、伊万里郷と有田郷と武雄の川古郷の“耕作之気遣”ですから、新田開発担当あたりの意味でしょうか。つまり、藩域の西半部の高いところから低いところまで、全部任されてたってことですね。

そのため、この頃は有田の大木村に居住してますが、またすごいことに翌々年の寛永14年(1637)には、行政を担う有田・伊万里・川古の代官にも任命されています。まさに、このあたりの地域では、神右衛門重澄さんの天下ってとこでしょうか。

まあ、直接窯業とは関係ないですが、この後、白石の一部の代官も兼務したり、牛津川より西の一部の総支配も兼ねたり、すごいですね。しかも、最終的には“長袴の人”と通称された身分にまで出世しますが、これは、前回も少し触れましたが、後の“着座”という身分の前身で、佐賀藩では家老に次ぐ身分でした。でも、いくら偉くなろうが、さすがにこんなに兼任させられるのはイヤですね。

ということで、神右衛門重澄の履歴について、何となくでもお分かりいただけたでしょうか。いよいよ次回からは、有田の窯業との絡みをご紹介して行きたいと思います。(村)

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