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有田の陶磁史(194)

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前回まで、『家永家文書』から、金ヶ江三兵衛が日本人を追放して欲しいって願い出てやばかったけど、家永家の由緒をもって多久美作守の許しを得て、当時の代官の山本神右衛門に届け出たって話をしてました。そして、ここで山本さんが登場してきたので、中野・山本家の人となりや人脈、神右衛門重澄の略歴なんかを紹介したところでした。

 

 さて、やっと本題です。この日本人追放の話は、詳しくは『山本神右衛門重澄年譜』という、山本神右衛門常朝の記録の中で詳しく触れられています。現代の陶磁史では、一般的に“窯場の整理・統合”と呼んでいる事件で、寛永14年(1637)のことです。

 前回話しましたが、この頃、山本さんは、有田の大木の代官所にお勤めで、名刺には書ききれないくらいのくそ長くて、いっぱいの肩書きを持ってたわけですが、今回の件はその中でも、“西目山津辺迄一通之横目”に関わるお仕事です。

 それは、朝鮮人の子孫が多くなり、やきものを焼いているのを日本人が見習い、細工をはじめ、伊万里、有田の方々にちりぢりに窯を築き、その燃料とするため、山を刈り荒らしたので、神右衛門はこの実情を藩主(初代勝茂)に報告した。その結果、寛永14年3月19日に、多久美作守(二代茂辰)に対して、朝鮮から渡来した陶工とその関係者以外の日本人を追放せよとの命令が下された。神右衛門は有田郷に在勤していたので、実地調査の上、日本人でも理由のある者は美作守の許可証を与えて残し、そのほかの者826人(男532人、女294人)を同年閏3月15日に追放したというような内容です。

 いかがでしょうか。この事件の記述にはまだ後半がありますが、とりあえずそれは後ほどに置いといて、ここまでは『家永家文書』の内容とそっくりでしょ。これまでご紹介した、『金ヶ江家文書』や『家永家文書』、そしてこの『山本神右衛門重澄年譜』を組み合わせることによって、この事件の主役的登場人物の組み合わせが、山本神右衛門と金ヶ江三兵衛、そして多久美作守あたりであることが分かります。ただ、このあたりは、話すと長くなりますので、次回以降に譲ることにして、今回は先にちょっと小ネタをやっつけておくことにします。

 

 というのは、もう一度追放の文章をよく見てください。追放命令が出たのが3月19日で、実際に追放したのは3月15日…?あれ、何か変ですね。命令よりも追放が早い??山本さんやっちまいましたかね??いやいや、これはそういうことではありません。もちろん、このカラクリをご存じの方なら、何の不思議でもありませんが、追放の日の方は前に“閏”の文字がくっついているのはお分かりでしょうか。“閏”は“うるう”と読みますが、そう“閏年”の“うるう”です。

 詳しくは触れませんが、現在はグレゴリオ暦(太陽暦)ですので暦上の1年は365日(正確には、365.2425日)ですが、天文学的な1年はは365.24219日です。その誤差を埋めるため、400年に97回、2月を29日までとする閏年を挟んでいます。おおむね4年に1回ですね。しかし、江戸時代に使われていた和暦は太陰暦でしたので、1年は現在よりも11日少ない354日でした。さすがに1年で11日もずれが生じると、そのままでは、季節感はメチャクチャになってしまいます。そこで、19年に7回の割合で、閏月という1年13カ月という年を追加して補正していました。

 ですから、追放命令の出た寛永14年3月19日というのは、ほんまもんの3月ですが、追放された閏3月15日はその翌月ということになるのです。しかし、1カ月弱で伊万里・有田を調べ上げて826人も追放にまで持ってくんですから、さすが山本さん仕事早いですね。見習いたいところです。(村)

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