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有田の陶磁史(195)

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前回は、山林保護の目的で、寛永14年(1637)に山本神右衛門重澄が、伊万里・有田から、826人の陶工を追放したという話をしてました。続きです。

 この時、藩主である鍋島勝茂から下された指示は、以下のようなものでした。

 

一、古唐人、同嫡子、一職数年居付き候て罷り在り候者は先様焼き物差しゆるさるべき事。

一、唐人の内にても他国より参り、其の所に家を持ち候わぬ者は相払うべき事。

一、扶持人、徒者、町人、旅人、此の者共はいずれも焼き物先様法度申し付くべし。

但し、其の所に居付き候て罷り在り候者で百姓を仕り罷り居ると申す者は其のまゝ召し置き、焼き物はつかまつらざるよう堅く申し付くべき事。

 寛永十四年

    三月廿日  多久美作守殿

 

 内容的にはお分かりいただけるかと思いますが、親切(?)にも少し解説しときます。

 まず、“古唐人”というのは、古くからの朝鮮人、つまり渡来一世のことでしょうね。その中で長年やきものに携わっている者と、その嫡子、つまり後継ぎについては、これまで同様にやきものを許すということです。ただし、朝鮮人であっても、藩外からきて、定住していないものについては追放となっています。その他の者もバツですね。“扶持人”とあるのは、おそらく武士のことでしょうか。

 おっと、うっかり地雷踏んでしまったようです。遺憾ですが、またここで少し脱線させてください。

 

 それは、武士と言えば中央集権的な藩政を行うため、城のある城下町に住んでみたいなイメージはないでしょうか。まさか、やきもの焼くのダメダメみたいなところで登場するとは意外でしょ。伊万里や有田のような農村や山村部にも、いたっていうことですから。実は佐賀藩の場合は、そもそも兵農分離があまり進んでおらず、下級武士が町や村に平気で住んでました。しかも、武士でありながら、商業や農業を営んでいることも珍しくなかったのです。

 これはいろいろと訳ありですが、一つは、「五州二島の太守」と呼ばれ、佐賀や長崎にとどまらず、福岡の大半から熊本や大分の一部まで領した龍造寺隆信が関係しています。佐賀藩祖鍋島直茂は、もともとその家臣で、鍋島家はその龍造寺家から藩主の地位を禅譲されているわけですから、当然、家臣の武士団も引き継いでいるということです。ですから、とにかく江戸時代の佐賀藩の領域や石高に対して家臣が多すぎというわけです。なら、リストラすればいいじゃんってとこですが、譜代大名みたいに転封があればスッキリ切れますが、外様で同じところにずっといるのですから、そのチャンスがなかったのです。

 この石高についても、表向きは約35万7,000石で、大大名の部類に入りますが、もともと主家筋の龍造寺一族はワンサカいるわ、龍造寺統治時代以来の重臣、つまり同僚も多くて、そこから無理やり領地を取り上げるわけにもいきません。ですから、家臣が直接知行地(私領)を持つ旧態依然とした形態をなかなか改めることができなかったのです。例えば、龍造寺一族である多久家や武雄鍋島家、諫早家なんて、それぞれ2万石以上ですからね。石高だけから見ると、もはや大名です。何でも、一説によると、蔵入地と呼ばれた藩の直轄地は6万石くらいしかなかったもといいます。財布は立派でも、中身はスカスカって感じでかすね。

 ついでに、中身スカスカなのに財布は立派なので、財布で判断されるわけですよ。やれ駿府城やら大坂城修理やらって、幕府に普請を押しつけられ、なけなしの中身はさらに減少。ついでに、長崎警固の役もやらされるし、島原の乱みたいな戦いでも、当然、財布の見た目分はバッチリ出費させられるのです。

 何しろ、江戸初期と言えば、難癖付けられて大名がバンバン改易させられた時期で、しかも、関ヶ原の戦いに臨むに当たって、当初鍋島勝茂は、西軍のエース格まで務めてましたから。直前に直茂の策略で脱出には成功したものの、元敵軍のエース格ってレッテルは残ってるわけです。ですから、よいしょするくらい忠勤に励まないとヤバイのです。もう少し後のことですが、これってあの“鍋島”の献上とも大いに関係ありますよ。

 ということで、佐賀藩は江戸初期から、すでに張り子の虎状態で、大貧乏だったことはお分かりいただけるかと思います。ですから、家臣に俸禄米を下したくても、まっとうに与えることは不可能だったのです。

 これは、逆に家臣団だって変わりません。配分地と呼ばれた自治領を持ってるってことは、有事には石高に応じた戦闘員や戦費を確保する必要がありますから。でも、そんないざという時のためだけに、普段から家臣をたくさん抱えていたんじゃ、家が傾いてしまいます。

 そこで、薄給にして普段は自力で生計を立てさせたわけです。何しろ、中には切米1石の通称“一石足軽”やら、無給の“名被官”ってのまでいたくらいですから。ちょっと前に触れましたが、一石は10斗で、60kgの米俵一俵が4斗ですので、米俵2俵半ということになります。一人が1年に食べるのがだいたい一石くらいですが、そこから生活に関わるさまざまなものを捻出しないといけないわけですから、それだけで生活が成り立つわけがないのです。

 また、上でも触れましたが、“被官”って制度もありました。これは元より武士というより、武士と百姓や町人の中間というか、肩書きだけ武士って身分で、名字帯刀を許す代わりに有事の際には武士の従者になるというものです。一応、多くは格式的には足軽よりいっちょ上の徒士(かち)相当ですが、何しろ佐賀藩の独特な制度ですから、ちょっと複雑。2階級上の正式な侍格の者もいれば、逆に足軽格もいるわけです。もっとも、これは本藩や重臣の直臣の場合であって、一般武士の被官の場合には“又被官”といって、格式的には足軽の下の最下級に位置付けられていました。とはいえ、武士の方も、いざという時には規定の頭数揃えないといけないので、まあ、エキストラみたいなもんです。何しろ、有田の陶工などの中も何10人も被官がいますが、そんなド素人が、本当の有事に戦力になるはずがありません。というわけで、一般の町人や百姓に混じって、平時は農業や商業で暮らしたというわけです。だから、町人や農民と区別なく、“五人組”にも組み込まれていました。

 そう言えば、脱線ついでですから、もう一つ、佐賀藩独自の藩士の身分について触れておきましょうか。“手明鑓”という身分で、“てあかりやり”と読みます。正式な侍である平侍の下、先ほどの徒士よりも一つ上の身分で、財政難から50石未満の侍の知行を取りあげ、一律15石の切米を支給したものなので、佐賀藩にはいっぱいいました。これはもともと戦時には槍一本、具足一領で軍役を担うということで平時は無役なはずでしたが、当然、江戸時代に戦なんてありません。なので、やはり技能職から事務職に切り替える必要があり、結局、バリバリ役人をやらされるようになっています。たとえば有田関連では、皿山代官所には役人が20数人ほどいましたが、正式な侍格なのは代官くらいで、主力のほとんどはこの手明鑓で、番所担当あたりが足軽でした。

 

 ちょっと脱線が過ぎましたが元に戻って、とりあえず、古くからの朝鮮人陶工とその後継者だけに引き続きやきものを許すという命令が藩主から下されたのです。関連して、最後のところにもひと言触れておかないといけません。「但し、其の所に居付き候て罷り在り候者で百姓を仕り罷り居ると申す者は其のまゝ召し置き、焼き物はつかまつらざるよう堅く申し付くべき事。」って部分です。

 この内容から、伊万里や有田の土地から追放したというよりも、窯業界から追放したという表現の方が正しいだろうと思います。当時はまだまだ多くは半陶半農だったはずですから。つまり、やきものを作らず農業に専念するならそのままでよろしってことです。藩にとっては貴重な労働力ですからね。本来ならば、領民を減らすようなことは、したくないはずです。特に佐賀藩の場合は、薩摩なんかと同様で、幕府、藩の二重鎖国、ついでに皿山の場合は、もう一つ加わった三重鎖国みたいなもんですので…。

 ということで、長々と書いてしまいましたが、本日はおしまい。(村)

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