前回は、寛永14年(1637)の陶工の追放は、実は、山林保護が目的ではなく、きっと窯業の産業化のための山本神右衛門重澄の画策でしょって話をしてるとこでした。でも、きっとまた妄想?って思う方もいらっしゃるでしょうから、今回からはちょっとその証明みたいなことに触れてみたいと思います。
前々回でしたか、藩主鍋島勝茂から多久美作守に宛てた陶工追放命令の内容をご紹介しましたが、古くからの朝鮮人陶工とその後継者だけを残し、あとは窯業界から追放するようにという内容でした。上にも下にも、前にも後ろにもそれだけです。つまり、追放したところで目的達成ですから、ジ・エンドのはずです。
ところが…です。山本さんが実際にやったことには、まだ続きがあったのです。
「日本人を相払い申し候そのついでに、伊万里皿屋四か所、有田皿屋の内七か所、合わせて十一か所の皿屋を、神右衛門一人の見計らい挍量迄にて御意を請け相払い申し候。さ候て、黒牟田・岩屋川内皿屋より上、年木山切り、上白川切り、合わせて十三山に押し寄せ焼かせ申し候。」
あまり難しい内容ではありませんので、だいたいの意味はお分かりかと思います。ただ、細かく見ると、いろんなことが分かりますので、ちょっと解説しておきます。
まず、「日本人を相払い申し候そのついでに、」とありますが、正確に言えば、以前引用した勝茂からの追放命令に「一、唐人の内にても他国より参り、其の所に家を持ち候わぬ者は相払うべき事。」とありますので、追放されたのは日本人ばかりではありません。逆に、以前ご紹介した『家永家文書』には、「正ヱ門ヘハ右由緒を以、美作守様ゟ御免状其節之御代官山本甚右ヱ門殿迄被差出候由ニ而、」とありますので、日本人なら何でもかんでも追放されたわけでもありません。
そうすると、結局どんな人たちが残されたことになるのでしょうか?まず、追放命令で残された朝鮮人陶工は、「一、古唐人、同嫡子、一職数年居付き候て罷り在り候者は先様焼き物差しゆるさるべき事。」と記されるように、長くやきもの生産に携わっていた人やその後継者ということができます。一方、日本人の場合も、直茂から言葉をかけられたくらいですから、腕も良かったんでしょうけど、家永家のように長く携わったような人は残されてます。
あれっ?これって、朝鮮人だろうが日本人だろうが、結局は、熟練して上手そうな人を残したってことになりませんか?日本人を追放したとしてますが、そりゃ、最初は朝鮮半島出身の人たちが携わっていたところに、日本人も後から習い覚えたのですから、日本人が多く追放されるのは当然のことです。
ただし、勝茂の命令は、日本人を追放しろですので、形式上は、あくまでも「日本人を相払い申し候」としないとしゃーないでしょう。でも、本当はこの後ろに、「でも上手な日本人は残すけどねっ。」って、見えない文字で付いてるんですけどね。(村)