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有田の陶磁史(198)

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前回は、『山本神右衛門重澄年譜』の陶工追放の後半部分の内容について、検討していました。その続きですが、細かい話が続きますので、原文を確認していただきたいので、もう一度引用しときます。

 

「日本人を相払い申し候そのついでに、伊万里皿屋四か所、有田皿屋の内七か所、合わせて十一か所の皿屋を、神右衛門一人の見計らい挍量迄にて御意を請け相払い申し候。さ候て、黒牟田・岩屋川内皿屋より上、年木山切り、上白川切り、合わせて十三山に押し寄せ焼かせ申し候。」

 

 日本人を追放したついでに、「伊万里皿屋四か所」とありますが、これは“伊万里皿屋”という皿屋があったという意味ではなく、伊万里にある4か所の皿屋という意味です。有田の方も同様ですが「有田皿屋の内七か所」とありますので、伊万里の方は、当時は皿屋が4か所しかなく、一方、有田の方は7か所以上あったことが分かります。

 この頃の“皿屋”の捉え方は、以前、有田で最初にできた窯場のところで、『今村氏文書』の記述から説明しましたが、当時は、一つ一つの窯場がそれぞれ独立した皿屋でした。また、後には“皿山”の名称に変わりますが、この頃にはまだ“皿屋”でした。

 本当に、隔世の感がありますね。有田に窯業が成立した頃には、肥前の窯業のバリバリの中心地は伊万里で、有田なんて吹けば飛ぶような弱小の窯業地だったわけですから。磁器の生産によって、その勢力図が一変したということです。

 でも、まあ、たくさんの陶工を追放したんですから、皿屋の数も減らしたというのは、理にはかなっています。それに登り窯は山を切り開いて造るわけですから、山林保護の観点からは、ない方がいいに決まってます。しかも、それを山本さんの一存とは言え、ちゃんと上からの許可を受けてやってるんですから、とってもまっとうです。ここまでは!!

 ところが、おっとどっこい問題はその次です。「さ候て、黒牟田・岩屋川内皿屋より上、年木山切り、上白川切り、合わせて十三山に押し寄せ焼かせ申し候。」とあります。つまり、窯場の場所を大きく変えてしまったのです。しかも、ここは文章読む限り、許可を受けたとは書いてありませんね。

 場所的には、黒牟田皿屋と岩屋川内皿屋より東、つまり、深読みすれば、ここにはそれ以前から皿屋があったということです。具体的には、発掘調査の成果では、黒牟田皿屋が山辺田窯跡、岩屋川内皿屋が猿川窯跡のことです。その間にある、外尾山、当時何と呼ばれていたか記録はありませんが、たぶん外尾皿屋でしょうか、そこにある外尾山窯跡なども、引き続き残された窯場です。それより西側の地域が窯場が廃止された場所で、旧有田町時代は西部地区と呼ばれ、もともと曲川という地区に含まれていました。

 また、年木山切りとありますが、年木山とは17世紀の泉山の旧名で、17世紀後半の中で、泉山という名称に変わっています。切りですから、ここまでってことですね。それから、上白川切りとありますが、これは天狗谷窯のある場所です。したがって、天狗谷窯までってことです。

 ということで、従来の窯業の中心地であった南原地区周辺の窯場を廃止して、東側の地域の「合わせて十三山に押し寄せ焼かせ申し候。」ということです。

 このように窯場の場所を動かしてしまったことに、どんな意味があると思いますか?それについては、また次回。(村)

 

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