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有田の陶磁史(199)

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前回は、『山本神右衛門重澄年譜』から、「さ候て、黒牟田・岩屋川内皿屋より上、年木山切り、上白川切り、合わせて十三山に押し寄せ焼かせ申し候。」の部分について、説明しかけたところで終わってました。本日は、それの何が問題なのってことからです。

 さて、そもそもこの寛永14年(1637)の窯場の整理・統合は山本さんの年譜では、山林保護が目的でした。山林監督の肩書きも持ってたので当然です。ところが、『家永家文書』では、金ヶ江三兵衛が申し出た窯業改革ということになってました。そのどちらが正しいんだろうかということを考えていたところでした。

 山本さんは、藩主の許可を得て、陶工を追放して窯場を廃止しましたが、これは山林保護で当然説明が付きます。ただ、藩主の命令は、直接窯業とは関係なく、既得権のある長い経験を持つ朝鮮人陶工とその後継者だけ残せってことでした。しかし、一応「日本人を相払い申し候」とはしてるんですが、実際には、日本人でも、熟練した人たちは残しました。結局、実質的にはこれってやきもの作りが上手な人だけ残したってことですね。

 さて、ここからが問題です。最初に引用した『山本神右衛門重澄年譜』の後半部分はどうでしょうか?つまり、窯場を別の場所に集約したということです。これって、何か山林保護と関係あるでしょうか?追放した人の分、窯の部屋は空くわけですから、窯数を減らすために多少人のトレードは必要でしょうが、別に引き続きやきものを許した人にはそのまま焼かせていれば済むわけです。しかし、それまでの大半の窯場を廃止して、新たに窯を築き直すということですから。しかも、新たな窯業地とされた地域は、ほぼ無人の場所ですから、町から造る必要があり、新たに山を開く必要があるので山林保護とは逆行しますし、コスト的にも大変非効率なことをやったわけです。こんなこと、単に山林保護のためにやる意味はありませんね。少なくとも、山本さんは、こんな無計画なことをする人じゃないと思いますよ。

 では、山林保護ではなく、窯業の産業化を目指した改革だったとしたらどうでしょうか。その前に、何度か書いてるとは思いますが、この寛永14年(1637)という年代の時代背景を振り返っておきたいと思います。まず、1630年前後に泉山が発見されて、その後、天狗谷窯でその原料を使った磁器専業体制の試行錯誤が行われるわけです。そうこうしている内に、稗古場や岩谷川内、中樽あたりなど、少しずつ新たな窯が築かれるようになって、天狗谷窯に倣って、磁器専業を行うようになってきたのです。少なくとも金ヶ江三兵衛は、万事の心遣いをしていたってしてますので、泉山の原料の使い方を伝授したのかもしれませんね。そうやって、いよいよ泉山の原料で磁器専業体制が確立できるめどが立った、それがちょうど寛永14年あたりなのです。

 さすがに新しい窯業地を新設するにしても、最初から大きなリスクは取りにくいですが、天狗谷窯の試行がそのリスクヘッジとなっているわけです。

 ということで、まあ、どう考えても窯場の整理・統合の真の目的は、窯業改革でしょうね。次回からは、これについて、もっと詳しく見て行きます。でも、やっぱ山本さんって、すごい切れ者ですね。(村)

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