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有田の陶磁史(201)

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前回は、新たに有田の東側に造った町は、実は、ハイテク工業団地だったって話をしました。ただ、実際には窯場の整理・統合の際に窯場を集約した範囲は、新しく造った町の範囲よりもやや西側に広く、そこでは既存の窯場が残されています。ですから、最初は後の時期ほどは厳密な管理を行おうとは思ってなかったのかもしれません。まあ、そうでしょうね。それよりも、当時の窯業の中心地であった小溝窯や天神森窯のある南原あたりのバリバリ先端技術を何とか隔離したいという意図の方が強かったのかもしれません。それだったら、新しく造った町の西側に緩衝地帯となる窯業地を少し残したということも納得できます。

 というのは、南原あたりは、南に山を越えれば大村藩の波佐見、西に行けば平戸藩の三川内というように、他藩の窯業地に接した場所です。しかも、以前触れた『今村氏文書』などを見ると、当初は特に何の規制もなく、陶工が自由に地域間を移動している様子が窺えます。つまり、これではせっかくの貴重な磁器の技術がだだ漏れってことです。ついでに、磁器専業システムも出来上がったことですし、その内情もあまり知られたくはなかったはずですから。だから、窯場を他藩とは接していない東側に集約すれば、中心地の技術が漏れることを防ぐことができるわけです。

 この窯場の整理・統合は、窯場を移して、他藩の窯業地から隔離しただけではありません。これまでも少し触れていますが、陶器生産を廃止して、磁器専業体制を確立しているのです。前に説明したように、従来は磁器専業を行いたくても、原料枯渇の不安があってできなかったのですが、やっとその環境が整ったということです。

 止めたのは陶器だけではありません。実は、磁器の中でも相対的に下級品の目積みする磁器もなくなります。ずっと以前に説明したのを覚えていらっしゃいますでしょうか?肥前の窯業は朝鮮半島の技術に基づいていますので、焼成の際の窯詰め方法は、朝鮮半島の李朝時代の磁器と同じです。すなわち、上級品は匣鉢に入れ、中級品はトチンやハマなどの焼台に1点ずつ載せ、下級品は目積みして重ね焼きします。この中で、重ね焼きするものがなくなったということです。つまり、相対的に上質な製品だけを残したということです。

 まとめると、泉山で上質で豊富な原料が発見され、陶工の追放で熟練工を残し、相対的に上質な製品だけを焼くことにしたということです。ここから、窯場の整理・統合を通じて何をしたかったのかが見えてきます。つまり、上手な人に、良質な原料で、上質な磁器を作らせる体制の構築ですね。

 これの何がいいのかと言えば、磁器そのものは、すでに有田に限らず、周辺の波佐見でも、武雄でも、多久でも、伊万里でも作られています。ということは、いつ熾烈な競争になってもおかしくないということです。ところが、有田ほどバリバリの好条件を整えられる産地は、ほかにはないということです。つまり、競合相手が現れにくい体制ができたということなのです。

 もう少し触れることがありますが、長くなるのでまた次回ということで。(村)

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