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有田の陶磁史(202)

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前回は、寛永14年(1637)の窯場の整理・統合は、他藩の窯業地から隔離し、上手な人に、良質な原料を用いて、上質な製品を作らせる体制を構築することで、他産地と競合しにくい状況を作り出すのが一つの目的って話をしてました。続きです。

 

 確かに、この頃には周辺の窯業地でも、磁器が生産されています。ところが、各窯場での生産量的には圧倒的に有田の窯場多く、実際には、本当の競合相手となりそうなのは、他の産地ではなく、有田内部の窯場どうしでした。ほっとけば、過当競争を起こしかねないということです。これでは、山本神右衛門さんのもくろんだ、藩の産業化に支障があります。

 おそらく、そのためでしょう。この窯場の整理・統合の際には、物理的に窯場を移しただけではなく、組織そのものにも手が加えられています。というか、従来は、有田の窯業全体を串刺しにする組織なんてなかったのです。だって、一つ一つの窯場が、それぞれ独立した皿屋、つまり産地でしたからね。別々の産地の寄り合いが有田の窯業だったわけです。

 ところが、窯場の整理・統合の際に、有田皿屋という組織が作られたのです。そして、従来、皿屋だったそれぞれの窯場は、“山”という名称に改められ、そこにぶら下げられたのです。さすがにこれでは、ほかを出し抜いて勝手な振るまいをすることはできませんね。

 これが山本神右衛門重澄がやった窯場の整理・統合の全容です。やっぱ山林保護じゃなく、藩の産業化を目指した窯業改革でしょ。陶工としては、金ヶ江三兵衛と組んでやったわけですが、山本さんも金ヶ江さんも、多久家がらみの浅からぬ縁がありますからね。最強タッグだったのでしょう。

 こうして、金ヶ江さんは、有田の窯業繁栄の礎を築いたということで、“窯焼きの開基”、つまり陶祖と呼ばれるようになったってわけです。よく勘違いされてますが、磁器を発明したからでも、泉山を発見したからでもないですよ。

 それから、前に陶器商人東島徳左衛門がらみでお話しましたが、山本さんはこの窯場の整理・統合の後、寛永19・20年(1642・43)には皿屋中を1か年運上銀20貫目で大坂商人らに山請けにさせています。こないだお話した窯場の整理・統合前の運上銀が銀2貫100目でしたので、10倍弱ってところですね。現在の金銭価値に直すと、以前引用した例に倣うと銀2貫100目が420万円でしたから、20貫目では4,000万円ってことになりますね。

 どうですか?ちょっと藩もぐらっときそうな増え方だと思いませんか。何度も言いますが、なにしろ佐賀藩は極貧ですからね。それに、表の予算でしたら、確かに金額的には大したことありませんが、皿屋から上がる運上銀は、表の石高には表れない小物成という雑税の部類ですから。これは藩主の生活関連のほか、いざという時の軍需資金などに使われるブラックボックス資金で、藩庁でもごく限られた人しか中身を知り得ない裏金なので、増えすぎても迷惑なはずはありません。まあ、たまに国会なんかで問題視される、官房機密費(内閣官房報償費)みたいなもんですかね。領収書が不要だったかどうかまでは知りませんが、戦の時の軍事費をどのくらい蓄えているかなんて相手に悟られたんじゃ元も子もありませんので、さすがに表の予算では扱えませんから。ということで、次回はどうやってこの多額の運上銀を取り立てたのかのカラクリについて触れてみようかと思います。(村)

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