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有田の陶磁史(267)

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 前回は、『酒井田柿右衛門家文書』の「親柿右衛門」からはじまる文書について、「赤絵者之儀、釜焼其外之者共、世上くわっと仕候得共、」とはいつ頃のことでしょうねってことに関して、回りくどかったですが、お話ししたところでした。おおむね1650年代前半頃というのが結論でした。

 これって、まさに発掘調査で分かる、古九谷様式の色絵が有田じゅうの窯場で生産されるようになる時期と合致していますね。くどいようですが、本日もビミョーな話ですので、もう1回文書を引用しときます。

「赤絵者之儀、釜焼其外之者共、世上くわっと仕候得共、某手前ニ而出来立申色絵ニ無御座、志ゝ物之儀者、某手本ニ而仕候事。」

 そうすると、1650年代前半頃に、“赤絵”が有田の中にくわっと広まったということになりますね。でも、それって喜三右衛門が自前で作った“色絵”じゃなくて、喜三右衛門作の製品を手本にして作ったもんだって主張されてます。

 ならば、読み方によっては、色絵の中の赤絵って関係になりませんか?つまり、喜三右衛門が正保4年(1647)頃に“赤絵”という名の“色絵”を開発したけど、まもなくそれがくわっと世上に広まったってことです。

 たとえば、少なくとも山辺田窯跡や猿川窯跡では、1640年代に色絵磁器がはじまっています。山辺田窯跡の高台内に二重圏線が巡るような早い頃の製品と言えば、緑・黄・紫・青とちょびっとの赤を使ったもの、つまり寒色系の上絵の具を主体にした製品です。猿川窯跡の方は、例の鍋島報效会所蔵の祥瑞手大皿が典型的ですが、やっぱり寒色系の絵の具を主体とするものです。

 ところが、1650年代前半頃には、後の内山を中心に、古美術業界ではよく南京手などと呼ばれる色絵小皿をはじめ、赤絵の具を多用したものが多く作られています。もちろん、山辺田窯跡などでも同じです。ほとんど伝世していないのであまり知られていませんが、山辺田窯跡の工房跡である山辺田遺跡を発掘調査をすると、染付を伴わない白磁素地に、赤絵の具などを多用して施文した色絵磁器が結構出土するんです。でも、山辺田窯跡の伝世品をよくご存じの方なら、逆に“??”かもしれませんね。山辺田窯跡の白磁素地の製品は、よく伝世してるタイプは、赤絵の具は使いませんから。山辺田窯跡の色絵の正統な本流の製品と言ってもいいかもしれませんね。一方、赤を多用するタイプは、山辺田窯跡にとっては、世の風潮に合わせた亜流の下級色絵です。だから、ほとんど伝世していないのです。

 まあ、話題がずれますので、ここではそれには詳しく触れませんが、1650年代前半頃に赤絵の具多用の製品が増えることは、まさに『酒井田柿右衛門家文書』の記述そのものじゃないですか?当初、寒色系の絵の具が主体の色絵が作られていたが、そのうち、喜三右衛門の製品を参考に、赤絵の具を多用した“赤絵”が流行したってストーリーです。ぴったしでしょ。

 でも、そうすると、あらら…です。喜三右衛門の赤絵が、色絵磁器の最初ではないってことになりますね。でも、これで喜三右衛門を大ウソつきにしなくて済みました。やれやれ。喜三右衛門は、「赤絵初リ」ではじまる「覚」中で、あくまでも“赤絵”は自分がはじめたものだと言ってるだけで、それが色絵磁器のはじまりだとは言ってませんので。現代の人が、それを勝手に色絵磁器のはじまりと解釈しただけですからね。

 ということで、以前示した3案の内、(1)喜三右衛門 → 高原五郎七 → ミスターX案は消えたことになります。ということで、続きは次回。(村)

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