前回まで、寛永14年(1637)の窯場の整理・統合について話してました。山本神右衛門重澄さんって、なかなかすごいでしょ。運上銀も銀2貫100匁だったもんを、寛永19・20年(1642・43)には山請けを成功させて、一気に20貫目にすることに成功してました。
実は、これができた背景の一つは、窯場の整理・統合の少し後には、追放した一部の陶工を復帰させているからです。つまり、また陶工の人数が増えているのです。これは、復帰の要望があったというのもありますが、陶工減らしすぎて、運上銀が減少し、藩の懐具合にも響いてきたからです。でも、名目上は山林保護だったのに、これじゃ意味ないですよね。でも、こうして藩内でも、だんだん窯業って儲かるぞって認識が高くなっていったんだと思います。
発掘調査成果によれば、陶工の復帰は新しい山を開設したり、従来の山の中に新しく窯を追加したりという方法で対処しています。新しい山では広瀬山(正確には、設立時は広瀬皿屋)に広瀬向窯跡が新設されており、黒牟田山でも多々良の元窯跡が早くから加わっています。
ほかにも南川原山や南川原皿屋なども加わりますが、たぶん他の山に比べると成立が遅く、1650年代初頭くらいではないかと思います。というのは、佐賀藩の支藩である蓮池藩が寛永16年(1639)に創設されてますが、この時南川原は蓮池藩領として分割されてます。南川原は窯場の整理・統合の際に窯場が廃止されていますが、その2年後には蓮池藩領となるので、さすがに新たな山は築けなかったでしょうね。しかし、慶安4年(1651)に本藩領の藤津郡上久閒山との交換により、再び本藩領となっています。出土資料から見ても、そのあたりが南川原復活を感じさせる手頃な時期じゃないでしょうか。窯としては後の下南川原山では南川原窯ノ辻窯跡、上南川原山では源左衛門窯跡がほぼ壊滅状態で詳しくは分かりませんが、樋口窯跡もその頃に築かれています。
そして、お話したように、寛永19年・20年に銀20貫目で山請けされるわけですが、その後は1か年35貫目ずつで、寛永21年(1644)から正保3年(1646)の3年間の山請けとなっています。すごいですね。窯場の整理・統合の頃、銀2貫100目で420万円だった運上銀が、20貫目で4,000万円になって、さらに10年もたたない内に35貫目で7,000万円に急増したんですから。
さすがにこうなると、山本さんはシメシメ、佐賀のお城にいる重役たちだって、ウハウハな気分になったでしょうね。でも、そう何事もなく、すんなりとはいかないんですよね。ということで、続きは次回。(村)