文字サイズ変更 拡大標準
背景色変更 青黒白

有田の陶磁史(204)

最終更新日:

前回は、寛永14年(1637)の窯場の整理・統合以後、有田の窯業からの上がりがどんどん増えていった経過をお話ししました。最終的には山請けによって、寛永21年(1644)から正保3年(1646)の3年間は、年35貫目になったってところまででした。続きです。

 事件は、翌正保4年(1647)に起きました。9月に江戸の藩主の命を受け、中野数馬という人が佐賀に下向してきたのです。ちなみに、この時の藩主は初代勝茂で、この年は参勤交代で江戸にいたわけです。また、中野数馬は、以前出てきた中野神右衛門清明の孫に当たる人物で、つまり、山本神右衛門重澄から見れば甥ということになりますね。

 この人がなぜ藩主の命を受けたかと言えば、ゴニョゴニョ。佐賀藩では大きく分けて、外様(外役)と呼ばれる藩政一般を行った担当と、藩主の家政を担った御側(内役)に分かれており、後者のトップを年寄役と言い、中野数馬はこの年寄役でした。つまり勝茂の御側仕えだったので命を受けたわけです。この年寄役は家老の下の着座クラスですが、後には法令に判を入れる加判家老を命じられています。

 この時の用件は、何でも江戸の佐賀藩邸では、運上銀が儲かるようになったのいいけど、やっぱまた山が切り荒らされるんじゃないかって議論が沸き起こり、再び陶工を追放って案にまとまったので、その処理を佐賀のお城にいる家老の石井兵庫に命じたのです。

 以前、当時の山林保護は今以上に重要だったという話をしましたが、やっぱ膨れあがった黄金色の力でもダメでしたね。もちろん、江戸藩邸のお役人なんて、有田のやきもの生産の現場なんて見たことないはずですのでなおさらです。

 そこで、石井兵庫は有田の大木村の代官所窯焼きの代表たちと副田喜左衛門呼び寄せて相談したといいます。もちろん、当時はまだ皿屋代官の制度はありませんので、一般的に代官所と言って、イメージされるやつです。ですから、窯場のある有田郷の東側ではなく、田畑の広がる西側の地区にありました。また、代官自体は山本神右衛門重澄が務めていましたが、何しろ兼務の多い人ですから、どうやらこの頃は、伊万里代官所にいたようです。

 ところで、ここに副田喜左衛門という名前が出てきますが、なぜこの人が呼ばれていたのかは、はっきりとはしたことは分かりません。ただ、この副田家は、代々御用品を生産したいわゆる御道具山(藩窯)の責任者である御道具山役を務めています。この頃には岩谷川内の御道具山に関わっていたと考えられますので、その関係で呼ばれたんだろうとは思います。ちなみに、以前、佐賀藩には農業や商業に従事する在郷の武士がいっぱいいたって話をしましたが、副田喜左衛門ももともとは陶工だったみたいですが、御道具山役という役人としての役職を担うわけですから、手明鑓(てあかりやり)という武士の身分に取り立てられています。

 ということで、この後まだまだ続きますので、また次回ということで。(村) 

このページに関する
お問い合わせは
(ID:2153)
ページの先頭へ
有田町役場 文化財課

〒844-0001 佐賀県西松浦郡有田町泉山一丁目4番1号

電話番号:0955-43-2678

FAX番号:0955-43-4185

© 2024 Arita Town.