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有田の陶磁史(205)

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前回は、正保4年(1647)に再び陶工追放案が江戸の佐賀藩邸で持ち上がり家老の石井兵庫に解決が命じられ有田の大木の代官所に窯焼きの代表者たちと副田喜左衛門が集められたというところまででした。例の寛永14年(1637)の窯場の整理・統合から、ちょうど10年ですね。さて、続きです。

 この時、石井兵庫は、追放案の解決には、その頃、銀年35貫目だった運上銀にさらに上乗せしてお願いするしかないだろうという作戦で説得を試みました。しかし、窯焼きたちは、「現在の35貫目でも重い負担なのに、これ以上はムリ。それでも追放するというならしゃーない。」と言って、あっさりと引き上げて行ったと言います。ご家老さまに盾突くとは、なかなかの猛者たちですね。

 そりゃ、そうですよね。いくら、磁器の生産体制を整えて、軌道に乗ったからって、窯場の整理・統合の頃、銀2貫100目、現代の価格で420万円だった運上銀が、10年後には35貫目で7,000万円に急増してるんですから。今だって、10年後には税金を17倍近く上げるって言われたら暮らせねーってなるでしょ。それどころか、その上、まだ上げるって話ですから…。

 でも、石井さんだって、何とかせーって命令されているわけだし、江戸のやつらはいっつもおカネを出せ出せって言うけど、金欠の佐賀の方ではやりくり大変なんだから…、って思ったかどうかは知りませんが、どうしても諦めきれませんでした。

 どうしたと思います?こういう上司いますよね。今度は、石井右衛門佐と土肥喜右衛門山本神右衛門を呼びつけて、皿山の方に行って総人数を集めて話し合いをし、再考を求めよ!もしそれでも承服しないなら追放もやむを得ないけど、これは大事な任務なので、後日のために三人で事に当たれって、部下に丸投げしちゃったんです。きっとこれでまとまらなかったら、部下のせいにするんでしょうね。

 石井右衛門佐と石井兵庫は、名字からも分かるように同じ一族です。それで、藩主鍋島勝茂の又従兄弟にも当たり、直茂や勝茂に重用されたといいます。知行自体は70石くらいですので、多くはありませんが。土肥喜右衛門についてはよく知りませんが、知行は99石みたいです。

 それで、この三人はさっそく夜通しで有田に赴いたといいますので、大木の代官所じゃなくて、きっと佐賀のお城に呼びつけられたんでしょうね。さすがに大木の代官所からだと、窯場のある地域までは夜通しどころか夜も更けませんから。そして、いざということで、窯焼き全員を集めて話し合いをしましたが、当然、バーツ!!0回答でした。

 さあ、これからどうなるんでしょうね。でも、長くなるので続きは次回。(村)

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