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有田の陶磁史(208)

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 前回は、正保4年(1647)12月に江戸藩邸よりもたらされた決定により、ついに山本神右衛門重澄を皿屋代官に任じて、山本案の計画実行の責任を負わせるってことになりました。

 今までも、何度か代官ってのは出てきましたが、“皿屋代官”ってのが任命されたのは、これがはじめてです。これは、ついに藩も有田の窯業を本格的に藩の産業として位置付けることを正式決定したことを意味します。

 まあ、それはめでたしめでたしなんですが、何度も言いますが、肝心の山本窯業再生計画案なるものへの賛同者は、この時点では窯焼きの半分です。ですから、山本さんはその計画によほどの勝算を感じていたのか、一か八かだったのかは分かりませんが、相当大がかりなプロジェクトを考えていたことは間違いありません。あまりに突拍子もない計画なので、窯焼きの半分は乗れなかったということでしょうから。

 ところが、実は『山本神右衛門重澄年譜』には、その肝心かなめの案の中身が書かれていません。残念というか、本来はそこがキモでしょう。だから、このあたりは、一般的に陶磁史とかの記述では、できるだけ触れないように、読者に悟られないようにして、サラリと流します。だって、書いてないから、分かんないんだもん。でも、そこは以前から妄想も大ありなこのブログのことですので、あえて死んだふりすることなく、この道一筋うん十年のキャリアを駆使して推測を試みておくことにしましょう。だって知りたいでしょ。

 まず、寛永14年(1637)の窯場の整理・統合の頃、銀2貫100目だった運上銀を、寛永19・20年(1642・43)には銀20貫目、翌寛永21年(1644)から正保3年(1646)の3年間は、年35貫目にできた原動力は、窯場の整理・統合による磁器専業体制の確立と、上手な人に、良質な原料を用いて、上質な製品を作らせる体制の整備にあります。相対的に利ざやの大きい付加価値の高い磁器を、効率的に、大量に生産できるシステムができあがったんですから。しかも、過当廉売等の競争が過熱しないように、有田の窯場を網羅する有田皿屋を設け、すべての窯場を一つの組織に組み替えたことも大きな影響があります。その後、再び陶工も増やしてますしね。さらに、山本さんの政治力というか、特定の商人に山請け、つまり専売させることにより、価格を安定させ、需給バランスを図ることができたのです。

 つまり、正保4年(1647)の山本窯業再生案の中身を考える上では、まずは、その頃に窯業がどのような実情にあったのかを押さえておくことが大切なんです。

 って、前置きを書いてたら、だいたい予定の文字数になってしまいました。どうせ、また長くなりますので、続きは次回。(村)

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