前回は、山辺田窯跡で焼かれている青手の話をしました。主体的にはAタイプとした外面を雲気文で埋めるタイプで、外面を唐草で埋めるBタイプについては、B-2タイプは少しあり、何と意外にもB-3タイプも出てきてしまったってオチでした。でも、Bタイプの中では圧倒的に数が多く、後期とされるB-1タイプってどこの窯で焼かれたんでしょうねって疑問が残りました。
もちろん、B-1タイプも細分すれば、相当いろんな唐草をはじめとする文様の違いや素地の違いがありますので、一つの窯で作られたもんとは到底思えません。ただ、これが白磁を素地とする色絵の最大の難点ですが、色絵製品でも出土しない限り、手がかりが少なく、なかなか窯場を特定することができません。ところが、現実的には、山辺田窯跡以外に色絵を付けた青手が出土している窯場はないんです。だから、どこか素地の特徴がないか探るとか、たとえば器形とか口銹技法とか、そういう特徴的な素地を探すくらいしか手がないのです。
実は、近年主流(?)になっている説として、B-1タイプは内山の上絵付け工程の分業化後に作られたもんで、絵付けは赤絵町の赤絵屋…、この話はまだ時代が後なので、このブログではまだ出てきてないと思いますが、ようするに内山の窯場の素地だという捉え方がされてます。赤絵屋跡である赤絵町遺跡などで、小片が2、3点出土してますし。
でも、個人的には、本当にそうかな~ってのが本音ですね。たしかに色絵の小片は出土してますが、素地は出土しませんしね。たまたま出土してないだけって言われればそれまでですが、もちろん内山の窯場でB-1タイプの青手素地のような大皿の出土例はないですしね。
それに、内山の赤絵屋の遺跡で出土する色絵と比べて、技術やコンセプトが違い過ぎますよ。内山は、特に南京赤絵系の影響が大きいですから。素地は白く、薄く、絵の具も赤を多用しますし、ちょっと技術が異質過ぎます。たぶん、山辺田窯跡とかから内山の赤絵屋になるために移住した際に、持ち込まれたもんだと思いますよ。
じゃあ、どこで生産したものって考えてるかと言えば、これまでも触れてきたように、窯業地の西側の山辺田窯跡周辺の窯でしょう。
山辺田窯跡の場合は、寒色系の絵の具を多用する技術の総本山みたいなところですから、素地も実に多彩です。質のいいのも悪いのもいろいろあります。でも、ほかの窯場のって、ある程度それぞれ窯場によって偏りがあるんですよ。
多々良の元窯跡の素地は、山辺田窯跡の素地の中に混ぜたら、まず間違いなく、まったく見分けが付かなくなります。ちょっと質の悪い感じのものが多いですね。広瀬向窯跡も同様ですが、中皿と大皿の間くらいの大きさが多いかも。外尾山窯跡は素地の出土量が少なくて、ちょっとよく分かりませんが、同じ外尾山の窯である丸尾窯跡は、色絵素地の割合が相当高い窯で、他の窯よりも多少南京赤絵系の影響が大きい感じですね。
ということで、本日はこの辺までにしときます。(村)
青手Aタイプ
青手B-1タイプ
青手B-2タイプ
青手B-3タイプ