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有田の陶磁史(301)

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 前回は、山辺田窯跡など、窯業地の西側の大皿生産窯に、いつ頃白磁素地の技術が伝わったのかって話をしてました。上限は南京赤絵系の技術を開発した酒井田喜三右衛門が、長崎ではじめて売ったというのが正保4年(1647)ということなので、上限は限りなくそれに近い時期なんじゃないってことでした。付け加えると、6月はじめ頃に売ったとしているので、正保4年もあと半年くらいはありますし。

 まあ、普通考えたら、楠木谷窯から直接っていうよりも、後の内山の窯場経由って考える方が自然でしょうか。西側の大皿生産窯でも、外尾山の丸尾窯跡は、染付製品などを見ても、山辺田窯跡とはちょっと毛色が違うので内山経由かなって思うし、外尾山窯跡も、染付製品なんかでも、なにしろ岩谷川内山の劣化版コピーみたいなのに励んでいた窯なんで、その辺りからの移植かもしれませんね。しかし、多々良の元窯跡とか広瀬向窯跡なんかは、直接内山からってよりも、山辺田窯跡の劣化版色絵の生産窯でしょうか。ただ、広瀬向窯跡の場合は、それとは別にというか、山辺田劣化版技術の前に、直接内山経由もあったとは思いますけどね。祥瑞手とかの変形小皿なんかも割と焼いてますから。

 それはそうと、前回の続きですが、じゃあ上限は分かったとして、大皿生産窯での白磁素地誕生の下限はいつなんでしょうか?前にお話ししたんですが、もう忘れたかな?白磁素地を用いた伝世品の幾何文手の大皿に、二重角枠内に「承応貮歳」(1653)銘の製品があるって話をしました。もちろん、幾何文手なんて山辺田窯跡以外にはありませんので、そこの製品です。しかも、幾何文手のように、一般的には高台内二重圏線のものが多い種類でも、こういう例を見ると必ずしも前期とは限らないんじゃないってことでした。この承応2年にはすでに白磁の技術が伝播していたことは、山辺田遺跡で類品が出土している青手中皿の伝世品にも、同じ「承応貮歳」銘の製品があることからも明らかですけどね。

 ですから、西側の大皿生産窯における白磁素地の出現は、1647~53年の間ってことになりますね。これでも上限と下限の間は5、6年ですから、まあ、大ざっぱにしか分かってないってほどでもないかとは思います。でも、40年代のうちなのか、はたまた50年代に入ってからなのか、下限をもう少し絞り込めたらいいですね。なので、次回はそれについてお話しします。(村) 

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