前回は、東島徳左衛門さんが長崎で最新の磁器技術を唐人から教わってきて、それを喜三右衛門さんに作らせようとしたってところまででした。続きです。
この喜三右衛門さんの色絵磁器開発の話は、『酒井田喜三右衛門家文書』の「赤絵初リ」ではじまる「覚」に記述されているものなので、当然、これまで色絵のはじまりの話として捉えられてきました。だから、最初から上絵付け技法の話って固定観念を持ってしまいがちですが、それだと頭がフリーズしてそこにしか目がいかなくなってしまいます。
でも、これってあくまでも古九谷様式の話ですからね。このまとめの最初でもお話ししましたが、古九谷様式は突き詰めれば景徳鎮磁器と同等品を作るための様式ですから、色絵はそれを構成する一要素ではあっても、全体ではないわけです。“古九谷 > 色絵”の関係って言いましたね。素地も激変しますし、施文ルールも一新しますので。まあ、いわば土作りから上絵まで、全部変えてしまった様式ですね。
ですから、単なる色絵開発の話として捉えると、よく言われる、柿の実のような赤の色調を出すのに苦労しただの、それで身上潰しかけただのって話になって当然です。だって、他に苦労できるとこがないでしょ。でも、色絵の色の調合くらいで潰れかけますかね~??いくら何でも、窯焼きという窯元の社長さんにしては貧乏過ぎるでしょう。
ところが、これにはオチがあります。実はこの柿の実うんぬんの話ができあがったのは大正時代のことで、戦前まで歌舞伎や小学5年生の教科書を通じて、話が普及したんです。ですから、当然唯一の文字史料である『酒井田柿右衛門家文書』にも、苦労したことは出てきても、柿なんて実どころか種すら出てきませんよ。
じゃあ、そういう伝承があったとか…??そんなもん、ナイナイ。すぐに「…と伝えられている。」って書きたがる人がいますが、こんなのだいたい明治以降妄想ですね。研究史を遡ると分かるんですが、だいたい明治から昭和前期頃の研究の人たちって想像力が豊かというか、資料が少ないんで、その豆粒のような資料だと考えられる選択肢っていっぱいあるわけですよ。逆に今のように資料が豊富だと、そのすべてに矛盾しない答えなんて、そうそう多くはないわけです。そんでその後の人たちは、一々まともに遡って論拠を調べたりはしないので、必然的にエイヤーで「…伝えられている。」ってなるわけです。こんなんいっぱいありますよ。有名どころでは「元和2年(1616)に、日本初の磁器が創始されたと伝えられる。」とか。実は、昭和になってからの伝承なんですけどね。
話がそれましたが、じゃあ、その柿の実の話のできた大正から昭和前期にかけて、喜三右衛門さんはどんな色絵磁器を作っていたと考えられていたでしょうか?ここでも、昔、昔、お話ししたことがあると思いますが、まだ柿右衛門と命名された磁器は酒井田家のみで作られていたと考えられた時代です。ついでに言えば、古九谷は九谷製だった時代です。つまり、このストーリーがイメージしているのは、古九谷様式の製品じゃなくて、柿右衛門様式の製品ってことです。柿右衛門様式の赤なら、柿の実と言われれば、色調が淡めの朱色ですから、フムフムなるほどって納得もできるはずです。でも、古九谷のむしろ赤紫に近い赤は、さすがに熟れすぎた柿の実みたいで、食べると腹壊すかもです。
ずっと前にも書きましたが、試しに伝世品でも見比べていただければ一目瞭然ですが、五郎七さんの“古染付・祥瑞系”だろうが、ミスターXさんの“万暦赤絵系”だろうが、喜三右衛門さんの“南京赤絵系”だろうが、穴のあくほど眺めても赤絵の具に差はありません。でも、この話聞くまでは多くの方は差があると思ってたでしょ。何しろ柿の実の赤ですから。案外、そう思って見ると、そう見えるかもしれませんけどね。でも、残念でした。ということで、今日はおしまい。(村)