簡潔にまとめるって言いつつ、何だか、喜三右衛門さんで手こずってますね。ぶっ飛ばしますね。
前回、喜三右衛門さん、柿の実の赤なんて作ってないよって話をしてました。続きです。
じゃあ、喜三右衛門さん、何に手こずったのってことですが、それは素地作りです。“赤絵”というくらいですから、赤が目立つというか映える素地作りです。
“南京赤絵系”の素地は、ほかの五郎七さんやミスターXさんの素地とは、ちょっと違います。何より薄い、白い、シャープがもっとうです。このキリッとしたキレのある乳白色の素地に、赤の取り合わせが実にバエるんですよ。ほんまに。
ところが、この素地を作るのが難しい。ちなみに、現代の陶芸作家の方でも、泉山陶石で同じキレのある素地を作れる人は、いないんじゃないかな?ましてや、はじめてそれに挑戦したんですから、そりゃ苦労もしたでしょう。焼くのも登り窯ですから、小型、低温の赤絵窯とは訳が違いますからね。焼き方も手探りですし、燃料も高価な赤松をバンバン使いますしね。そんなにしょっちゅう焼くわけにもいかないことだし。そりゃ何度か失敗したら、家も傾きますよ。
それに製品だけじゃないですよ。それに合わせて、サヤ鉢やハマなど窯詰めの際の窯道具も従来のものとは変えてますから。
あっ、そうそう。この薄さを実現するためってことが大きいと思いますが、素焼きもはじめてます。こんなの、中国にはない技法ですから、徳左衛門さん情報にはなかったはずです。
それから、染付素地とともに白磁を開発したのも大きな功績です。もともとほかの系統にはなかったので。
なかなかうまくいかないので、途中で“こす権兵衛(呉須権兵衛?)”さんに協力してもらったみたいですが、この方、中国の人の可能性はあるかもですね。もしかしたら、例のミスターXさんの正体だったりして…。いや、あくまで単なる妄想ですよ。とりあえず、そうして技術を確立して、さっそうと長崎に売りに行ったんですよ。『酒井田柿右衛門家文書』には書いてありませんが、いっしょにいったかどうかは別として、当然、徳左衛門さんがらみだとは思いますよ。正保4年(1647 )の6月はじめに「かうじ町」の唐人八観さんのところに寄宿してってありますが、別の文書では「幸善町」ってあるので、「興善町」のことでしょうかね。そこで、最初に売ったのが、加賀藩御買物師の塙市郎兵衛さんでした。そんで、中国人やオランダ人にはじめて売ったのもワシじゃっておっしゃってます。つまり、“古染付・祥瑞系” → “万暦赤絵系”ってきて、正保4年が古九谷最後の“南京赤絵系”の成立の下限年代ってことになります。
そんで、どうせ裏で例の山本さんが糸引いていたんだと思いますが、この技術が有田の中でバカ受けしたんだな~。ってところで、本日はおしまい。(村)