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有田の陶磁史(311)

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前回は、喜三右衛門さんがやっと完成した“赤絵物”を、正保4年(1647)6月に、長崎ではじめて売り、その後中国やオランダ人にも売り始めたってところで終わってました。

 ところで、この正保4年って、ほかにも何かあった年だって話したことがあるんですが覚えてますか?

 そうです。12月に横目の山本さんが、初代皿屋代官に任命された年です。その経緯は簡単に言えば、江戸の殿さまがやっぱ山林が大事なので、窯の燃料にするために木を切り荒らすから、陶工を追放するようにって命令下すもんだから、佐賀ではこりゃ大変。運上銀でも上げて許してもらうしか打つ手なしってことで、主だった窯焼きを集めて交渉するも決裂。しゃーないので、山本さんたち3名を皿屋に派遣して再度交渉させるも、半分はそれなら陶工止めるってなって決裂。最後は、山本さんを代官に任命して事態を収拾させたってやつです。

 山本さんは、事もあろうに、従来の運上銀35貫目を68貫990匁にする計画で交渉するっていう無謀ぶりで、いきなり倍近くふっかけたわけですから、いっしょに行ったお友達たちも呆れてたようですが、本人は大真面目に計画を披露したようですよ。ただ、残念ながら、その内容がどこにも記録がなくて分からないんですよ。

 でも、磁器の増産事態は、すでに寛永14年(1637)の窯場の整理・統合の際に、磁器専業で実現してますので、それで倍近く儲けようとしてもムリです。まあ、いくつか方策はあったと思うんですが、やっぱ一番大きいのは量ではなく質の転換でしょうね。要するに、初期伊万里様式から古九谷様式への転換ってことです。古九谷様式なら、そもそも付加価値は高いし、中国磁器の完全な代替品にもなりますからね。海外輸出はまだ頭出しがはじまったところで、即効性のある儲けには繋がらないけど、中国の混乱でスッポリ抜けてた国内向けの中国磁器市場はゴッソリいただけるわけですからね。従来の初期伊万里は、中国磁器以下陶器以上のすき間市場の製品に過ぎなかったものが、国内向け磁器市場の完全制覇ってことです。

 それに、この案を考えてた頃、ちょうどグッドタイミングで喜三右衛門さんの最新の“赤絵”も、ものになりそうって手応えがあったってわけです。すでに各地の窯場では、少なくとも一部の窯焼きには、五郎七さんの“古染付・祥瑞系”の技術が広がってましたからね。まあ、喜三右衛門さんの技術の会得が簡単とは言いませんが、一からはじめるわけじゃないので、マネできないってことではないと思いますよ。まあ、見事なくらい、あっという間に有田全体に伝わってますよ。

 この状況については、『酒井田柿右衛門家文書』に「赤絵者之儀、釜焼其外之者共、世上くわっと仕候得共、某手前ニ而出来立申色絵ニ無御座、志ゝ物之儀者、某手本ニ而仕候事。」ってあります。

窯焼きやその他の人たちが、喜三右衛門さんの作品を手本にして、こぞって作ったみたいですね。たぶん、喜三右衛門さんは、全部じゃなくても、神右衛門さんに技術の公開を余儀なくされたんだと思いますよ。だって、そもそもこの技術は、喜三右衛門さんが独占する権利はないですからね。元はと言えば、徳左衛門さんが長崎で有料で仕入れてきたネタですから。委託したのが徳左衛門さんで、受託したのが喜三右衛門さんってことだから、どういう契約になってたのかは知りませんが、一般論では、当時特許はないですけど、その権利は徳左衛門さん側にあるはずでしょ。まあ、喜三右衛門さんも身上潰しかけるほどだったんだから、応分以上の開発費用は負担したんだとは思いますが。

 ということで、本日はここまで。(村)

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