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有田の陶磁史(270)

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 前回は、山辺田窯跡の色絵技術の中に、古染付・祥瑞系古九谷や南京赤絵系古九谷の影響は現れまっせって言いつつ、具体的なところまでたどり着きませんでした。本日は、その話の続きをします。 

 まず、古染付・祥瑞系古九谷ですが、前回お話しした山辺田窯跡の万暦赤絵系古九谷と違い、染付製品もあります。ちなみに、古染付と祥瑞の技術の影響は別々ではなく、同じ岩谷川内山に一度に入ってきたようなのでいっしょにしてますが、色絵の施し方はちとばかり異なります。祥瑞系の色絵は、染付で丸文や地文を配して、そこに色絵を組み合わせて構図を完成させます。つまり、染付文様は入っていても、それだけでは構図としては完成しません。一方、古染付系の色絵は、通常は染付製品として完成した構図の中に、別になくてもいいんじゃねーって思われるような色絵文様を加えます。つまり、上絵を施す部分の染付をあえて抜いたりはしません。

 では、こうした古染付・祥瑞系の影響は、山辺田窯跡ではどの段階から見られるのでしょうか?実は、すでに皿の高台内に二重染付圏線を配す段階から見られます。ただし、素地はいくらか乳白色に近い色調を呈するものが多くなります。

 ということは、山辺田窯跡で色絵磁器の生産がはじまってからさほど時期差なく、影響が及んだものと推測されます。もっとも、古九谷様式の成立そのものが、下限は喜三右衛門さん由来の赤絵が、1650年代前半頃には「釜焼其外之者共、世上くわっと仕候」の状態ですから、それよりは前ということになります。上限ははっきりとはしませんが、共伴製品などからも、おそらく中国が王朝交代した1644年前後と思われますので、古染付・祥瑞系、万暦赤絵系、南京赤絵系と3つに分けてはいますが、成立時期差はせいぜい数年に過ぎません。ですから、ここでは山辺田窯跡のミスターXさんよりも猿川窯跡の高原五郎七さんの方が早いんじゃないって前提で話を進めてますので、まず五郎七さんが色絵をはじめて、その後ミスターXさんも山辺田窯跡で作るようになり、岩谷川内山の影響がすぐに黒牟田山にも及んだということになります。ですから問題は、南京赤絵系の影響が、この万暦赤絵系への古染付・祥瑞系の影響が及ぶ前なのか後なのかということになります。

 ビミョーな話になってきたでしょ。そんなこと、どうやって確認するのよって感じですよね。(村)

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