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有田の陶磁史(314)

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 前回は、喜三右衛門さんの技術が後の外山にはどのように伝わったのかということについて、とりあえず、外尾山の話までしてました。続きです。

 その前に、毎回、内山、外山に、“後の”を付けるのがめんどくさくなってきたので、省略するためになぜ“後の”を付けてるのか再度説明しときます。それは、まだ古九谷様式の製品が作られていた1640~50年代前半頃には、内山と外山という概念はなく、内山、外山という言葉もなかったからです

 ということで、話を戻しますが、前回お話しした外尾山の北側というかお隣に位置するのが、黒牟田山です。何度も出てきたので覚えてらっしゃると思いますが、ここが古九谷様式時代には、外山の中核的な窯場で、山辺田窯跡や多々良の元窯跡などが位置しています。

 山辺田窯跡についてはさんざんお話ししてきましたが、最初百花手などミスターXさん開発のオリジナル技術が成立しましたが、まもなく五郎七さんの技術も柔軟に取り込んで、祥瑞手由来の技術も、オリジナルの技術と融合させる形で、広く活用されるようになります。生産量では、宗家の岩谷川内山を完全に圧倒してます。そして、その後世間で流行しはじめていた喜三右衛門さんの技術も入ってきました。これによって、山辺田でも白磁素地も生産されるようになります。でも、そこは山辺田も西の雄ですからプライドがありますので、すんなりとは受け入れません。かくして、山辺田の直系技術たる赤絵の具を使わない五彩手や青手が相対的に伝世するような上級品として生産されました。そして、喜三右衛門さん系の赤の絵の具を使うようなタイプは相対的に下級品として生産したのです。

その後、そのごちゃ混ぜになった山辺田の技術が、外山へと広がっていきました。同じ黒牟田山の多々良の元窯跡は、この山辺田由来の技術で古九谷がはじまった窯です。ですから、ここにはその前に普及した、五郎七さん系の製品はありません。

 この黒牟田山のお隣(北東)が応法山ですが、ここはまだ古九谷様式時代には窯場自体がなかったんです。そして、ひと山越えてそのまた北西に位置するのが広瀬山です。ここはおそらく寛永14年(1637)の窯場の整理・統合後、一度窯業界から追放された人たちによって興された窯場で、当時は広瀬向窯跡がありました。ここでも山辺田窯系の白磁大皿が生産されましたが、多々良の元窯跡などとはちょっぴり生産スタイルが違ってました。それは、この白磁皿の技術が入る前に、五郎七さん系の製品を生産しているからです。内山の窯なんかといっしょですね。

 こんな感じで、西側の窯場では、山辺田窯の影響を受けた白磁皿類が作られたのは共通するんですが、まあ、そこに至る経緯はそれぞれってことです。

 ということで、本日はおしまい。(村) 

    外山の山の位置図

  • 外山の山の位置図


  • 広瀬向窯跡の祥瑞手変形皿(表)

    広瀬向窯跡の祥瑞手変形皿(表)

  • 広瀬向窯跡の祥瑞手変形皿(裏)

    広瀬向窯跡の祥瑞手変形皿(裏)

  • 広瀬向窯跡の白磁素地(表)

    広瀬向窯跡の白磁素地(表)

  • 広瀬向窯跡の白磁素地(裏)

    広瀬向窯跡の白磁素地(裏)

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