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有田の陶磁史(315)

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 前回までで、古九谷様式の技術の拡散については、粗々とは説明が終わりました。要するに、五郎七さん系の技術が、最初一度バット広がったんですが、その後で喜三右衛門さん系の技術がさらに強力に広がったわけです。ですから、五郎七さん系の影響は完全に途絶えたわけではないけど、全体的には喜三右衛門さん系の影響の大きい技術が、古九谷様式以降の有田の後継技術になったというわけです。

 ということで、古九谷様式のおさらいは終わったとは言っても、まだまだしばらくは出てきますよ。技術の伝播を中心に話ましたが、歴史は連続しているわけですから。そう言えば、まだ古九谷様式がどうやって終わるのかって話もしてませんしね。ねっ、おさらいでもしてちょっと思い出しとかないと、話がややこしそうでしょ。

 話を戻しますが、こうやって、古九谷様式時代にはほぼ有田の全域の窯場で、古九谷様式の色絵磁器が生産されています。今のところ、地域全部でまったく出土例がないのは南川原山くらいですね。意外ですか??

 南川原山は寛永14年(1637)の窯場の整理・統合の際に、一度窯場としては終わってます。でも、この後窯業界から追放された人の中から、「またやらせてよーっ」て人が現れたんです。藩としても、まあ、藩といっても佐賀のお城くらいまでで、江戸のお殿様はまだまったく関心がなかったんですけど。それは、こないだお話しした正保4年(1647)のまた山林大事だから皿屋潰せ騒動を見れば分かりますよね。これはその前の話ですから。続けますが、藩としても陶工は減らしてみたものの、もそっと増やせば、もっと儲かるしな~って皮算用してるわけです。それで、追放した中から、次点で落選したような人たちを選んで、また窯業に再復帰させたんです。その時期とか規模とかは、どこにも書いてないんで分かりませんが、発掘調査すると、だいたい1640年前後から50年前後頃にかけて増える窯場があります。一つが有田の窯場の南端の南川原山で、下南川原山では南川原窯ノ辻窯跡が、上南川良山では樋口窯跡が興ります。ついでに、源左衛門窯跡ってのもあって、たぶん同じ時期ですが、茶畑が造成されていて、昔は少し陶片もあったんですが、今は何も落ちてませんので詳しいことは分かりません。逆に北端では広瀬山が加わり、広瀬向窯跡が成立しました。それから、既存の窯場では黒牟田山の多々良の元窯跡ですね。それから外尾山では丸尾窯跡。続いて内山では…、う~ん、内山って今の町とスッポリ窯場跡が重なっているので、発掘調査できないところも多いので、あんまりよく分からないんですよ。まあ、上げるとすれば年木山くらいかな。1640年代中頃に楠木谷窯跡や枳薮窯跡ができて、1650年前後頃に年木谷3号窯跡が開かれるって感じかな。楠木谷窯跡ってのは意外でしょ。古九谷様式で一躍脚光を浴びることになりますが、喜三右衛門さんも最初はその他大勢の一人だったのかもしれませんね。

 窯場の分布が分かる最も古い史料は、承応2年(1653)の『萬御小物成方算用帳』で、有田の中では16の窯場があったことが分かります。ただし、有田皿屋に属すのは14の窯場で、広瀬皿屋と南川原皿屋(上南川原)はそれぞれ独立した皿屋になっていて、まだ仲間に入れてもらってません。寛永14年の窯場の整理・統合の際に13の窯場に統合してますので、その後3か所増えてますね。まあ、単純に増えたんじゃなくて、入れ替わりがあったみたいですけど。

 あっ?なんか、古九谷から逆行する時期の話をしてしまいましたね。とにかく、古九谷様式の頃は、南川原というのはクズ生産の窯場だってことです。ほんと、ろくなもん作ってませんよ。ということで、本日はここまで。(村)


  • 本文中に登場する窯場

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