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有田の陶磁史(316)

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前回はちょっと脱線して、窯場の整理・統合以後、陶工の一部が復帰して、窯場が増えちゃたって話をしてました。もちろん、その増やしてる頃の横目や代官も山本神右衛門さんですよ。そりゃ、陶工増やしてガッポリ儲けようとしますぜ。

 ところで、山本さんが初代の皿屋代官をしてる頃、やっぱり山本さんのにらんだとおり、海外輸出が「もしかしたらイケル?」ってことになってきました。正保4年(1647)にはじめて中国船が輸出したって話をしましたが、慶安3年(1650)にはまだアジアまでとは言えオランダ東インド会社も加わり、将来性抜群ですよ。やっぱ、景徳鎮と同等品の古九谷様式作っといて良かったねって話です。初期伊万里のままだと、どっかの国に先越されたかもってことです。

 だから、めでたしめでたしって話ではあるんですが、でも、そうするとちと困ったこともありました。本格的に輸出となると、いっぱい買ってくれそうですけど、同じもんがいっぱい注文きても作れるかな…??ってことです。1650年頃って言えば、まだまだ大半の業者は初期伊万里作ってたわけですから。それに、実は、古九谷様式は開発以後順調に生産は伸びてたものの、頭の痛い問題がありました。それは、メチャクチャ技術が複雑化してきてたんです。

 というのは、登り窯の発掘調査すると、1650年代前半の窯では、古九谷様式と初期伊万里様式の製品が同じ焼成室に残ってたりします。つまり、同じ業者でも両方作ってたってことです。こんなもん、技術が混じらないわけないでしょ。古九谷のような初期伊万里のような、へんてこりんなものもいっぱい出てきてたんです。

 たとえば、実際はもっと複雑ですが、メチャ分かりやすい例を一つ。1640年代から50年代前半にかけて、高台に厚みのある蛇ノ目高台の皿が比較的多く作られています。40年代後半は主に5寸皿が多く、50年代になるともっと小さな手塩皿が中心になります。当然、これはスタイル的には初期伊万里様式です。色絵の開発が1640年代中頃ですから、五寸皿にはほぼ色絵製品はありませんが、1650年代前半にはかなり普及しますので、蛇ノ目高台の手塩皿の方には、色絵を付けたものがあります。色絵って、初期伊万里様式にはない技法ですから、この点では古九谷様式に含めるしかありません。でも、実際に器形的には初期伊万里様式…。まあ、こんな単純な混ざり方をしてくれればまだ分かりやすいんですが、高台径小さくて高台銘や外面腰部に圏線入れるとか、初期伊万里のくせにぼかし濃み使ってるとか、染付製品も含めて、ビミョーなやつがウジャウジャ出てきたんです。それに、今まで初期伊万里作ってて、又聞き又聞きで今度古九谷にトライしてみよっとって人もいますしね。当然、持ってる技術は初期伊万里ですからね。これどっちやねんって感じのもんができるはずですよ。つまり、メチャ現場はグチャグチャで、生産体制も製品の品揃えも、まったくスッキリしてなかったんです。

 チャンスをつかみ取ればワンサカ儲かるかもねって状況なのに、こんなのあのくせ者の山本さんがほっとくわけがありません。何しろ窯場の整理・統合の際だって、全部ガラガラポンで民族大移動みたいな大胆なことした人ですよ。ということで、期待を裏切らず、またやったんですよ。メチャクチャなこと…。でも、長くなるので、続きは次回。(村)


  • 蛇ノ目高台の色絵手塩皿(内面)

    蛇ノ目高台の色絵手塩皿(内面)

  • 蛇ノ目高台の色絵手塩皿(外面)

    蛇ノ目高台の色絵手塩皿(外面)

  • ※画像は小木一良『新集成伊万里』里文出版 1993より引用


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