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有田の陶磁史(317)

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  前回は、古九谷様式の開発によって、もしかしたら海外輸出イケルかもよって状況になってきたけど、あまりにも内部の体制が複雑になりすぎて、グチャグチャ。そこで、お代官の山本神右衛門さんは、またゴソゴソとやったみたいよってところで終わってました。本日はそのゴソゴソの中身です。

 山本さんと言えば、天正18年(1590)生まれですから、戦国の世を生き抜いたってほどではありませんが、何しろあの『葉隠』にある「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」の家系ですからね。私利私欲を捨てて、滅私奉公ってことです。まだまだ気風は戦国ですよ。武士としての死に際をわきまえ、いざという時は潔く散るって覚悟があるので、ハラの座り方がちゃいます。一人では何もできないので、自分は食わなくても、優秀な人材を厚遇で召し抱えるべしって常々言ってたくらいですから、結構キレるやつもまわりにいたんだと思いますよ。

海外に大量輸出するためには、効率的に大量生産できることが不可欠です。そうすると、現地をよく知る山本さんなら、当然思い当たることがあったはずです。後の外山は、点々と山が分布していますから。

 あっ!“山”の説明は前にしましたよね。忘れたかな…?例の寛永14年(1637)の整理・統合の際にできた区分で、窯場の所在するそれぞれの地区のことを言います。なので、一つ一つの窯のことじゃありませんよ。今話してる1650年代前半頃だと、たとえば黒牟田山には山辺田窯跡と多々良の元窯跡がありました。この二つの窯場は別の丘陵上に位置していますが、この二つを合わせて黒牟田山です。というのは、この場合の“山”とは、自然地形の山とは違います。人々が生活や工房を営む平地と、登り窯を築くためのその平地に面した丘陵斜面を合わせたものが一つの山です。つまり、山辺田窯跡と多々良の元窯跡は別の丘陵上にありますが、面している平地は同じというわけです。なので、逆に同じ自然地形の山でも、反対側の斜面は別の“山”ってことになります。別の平地とセットになりますからね。

 まあ、“山”とはこんな感じです。話を戻しますが、後の外山は山が点々と位置していて、山と山の間はそれなりの距離があります。一方、窯場の整理・統合の際に人工的に町を造成した後の内山は、やや大げさに言えば、山が連続しています。

 さて、効率的に大量生産するにはどっちが向いていると思いますか?そんなもん、誰でも分かりますよね。後の内山に決まってます。外山は山単位でしか管理が難しいですが、内山は全体を一つの山的な、つまり一つの工場群として扱うことができますから。山本さんなら、それくらいのことは当然考えたはずです。でも、「じゃ、内山を海外輸出の拠点にしよう!」くらいのことだと、誰でも考えます。でも、何しろハラの座った山本さんですから、そんな生半可なことで終わるわけがありません。

 でも、その前に、まだちょっと長くなりそうなので、今日はここで終わりにします。また次回。(村)

 

 

 

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