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有田の陶磁史(272)

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 前回は、ほぼほぼ話は進みませんでしたが、色絵の創始順は、

五郎七 → ミスターX → 喜三右衛門

になるんじゃないですかね~ってところで、その中身までにはたどり着きませんでした。続きです。

 まずは、ちょっと色絵の技術の核となる窯の位置関係をおさらいしておきますが、楠木谷窯跡は後の内山の…、“後の”って言うのは、楠木谷窯跡の操業期間には、まだ内山という括りはなかったからですが、後の内山地区の東端に位置しています。そして、有田の窯業地の西端が山辺田窯跡で、ほぼまん中、後の内山の西端が猿川窯跡って位置関係になります。なぜ、こんな話をしたかと言えば、技術は原則的に近い窯場ほど、あるいは、技術的に類似する窯ほど伝わりやすいからです。

 このブログでは、岩谷川内山色絵磁器創始を前提としているわけですが、そこの古染付・祥瑞系技術は、西端の山辺田窯跡にも伝わっていますし、逆に、東端の楠木谷窯跡にもあります。ということは、一度有田全体に伝わったということです。もちろん、一部初期伊万里様式の製品ばかり焼いている窯もありますが。

 その時期については、たとえば山辺田窯跡では、お話ししたように、皿の高台内に二重圏線が入る段階です。また、楠木谷窯跡では、正保4年(1647)頃に南京赤絵系の技術を喜三右衛門さんが開発するわけですが、それが楠木谷窯を共有する別の窯焼きにも普及する期間差は考慮しないといけませんが、ただ、それほどあったとも考えにくいですね。そして、少なくとも古染付・祥瑞系の古九谷様式の製品は、その前に作られていたのです。そうすると、山辺田窯跡や楠木谷窯跡の例では、おおむね1640年代後半頃に伝わった可能性が高いように思われます。ですから、古九谷様式の製品を生産している別の窯場の例でも、当時の最北に位置する広瀬向窯跡では、古染付・祥瑞系の影響が見られますが、山辺田窯跡に続くくらい古九谷様式の大皿類をたくさん生産した丸尾窯跡には、明確な影響が及んでいません。これは、おそらく広瀬向窯跡の開窯が1640年代なのに対して、丸尾窯跡は1650年代前半と推定されるからだと思います。

 ちょっと前に、喜三右衛門さんの赤絵が、「釜焼其外之者共、世上くわっと仕候」となったのは、1650年代前半の可能性が高いって話をしましたよね。どうです。すると、時期的にピッタシでしょ。

 ということで、相変わらず、全然前に進みませんが、本日はこの辺までにしときます。(村)

 

 楠木谷窯跡・猿川窯跡・山辺田窯跡の位置図

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