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有田の陶磁史(321)

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   前回は、お代官の山本さんが、後の内山をヨーロッパを中心とした海外輸出の拠点とすべく、技術の平準化を目指して、バリバリの古九谷様式の生産者だけを残して、初期伊万里様式や古九谷様式とのマゼマゼ様式の生産者は、後の外山に配置換えを画策したってところで終わってました。続きです。あっ、そう言えば、これがいつ頃の施策かって話はしてましたっけ??だいたい1650年代中頃からはじめて、1660年前後頃に完了しているみたいですね。少なくとも、1650年代後半には、内山ではスパッと初期伊万里様式の製品が出土しなくなります。

 じゃあ、その純粋初期伊万里組の人たちはどうなったかですが、1つは新たに窯業地の新設によって対処しました。それが応法山や大川内山です。たとえば応法山には、突然、窯の谷窯跡や弥源次窯跡、掛の谷窯跡などができます。同じく大川内山では、日峯社下窯跡や御経石窯跡、清源下窯跡などが築かれます。

 さっき記したように、この施策は1650年代中頃から強行されるので、承応2年(1653)の『萬御小物成方算用帳』には、この応法山や大川内山の記述はありません。こう記すと、困ったことに応法山はともかく、大川内山は藩窯なので、あえて表に出さなかったんじゃって深読みする方がいそうです。でも、それ自体マル秘中のマル秘の『萬御小物成方算用帳』なんて、ぜったい表になんて出ませんよ。それどころか、こんなすごいもんが残ってる方が驚きなくらい。だって、算用帳ってのはいわば決算簿みたいなもんですから、これってすべての小物成、つまり雑税の決算簿ってことですよね。自分ちの貯金通帳の中身を人に見せますか?まあ、見せたがりの人もいるかもしれませんけどね…?じゃあ、こっちはどうですか?佐賀藩がこの小物成を何に使ってたかってことです。たとえば、藩主の身の回りのこととか…、まあ、これはいいですが、それとか軍事費。まさか、「うちの藩は、軍事費こんくらい持ってまっせ!」って手の内明かすご親切な方はおらんでしょ?たちまち攻められまっせ。だから、絶対表に出すもんじゃないので、あえて大川内山を隠す理由がないんですよ。ということで、1つは山の新設です。

 でも、これだけじゃちと賄いきれません。そのため、既存の山の中に新しい窯を新設したりもしました。広瀬山の香茸窯跡なんかがそうです。たぶんの既存の窯の中にも入っていったと思いますけどね。だから、香茸窯跡なんかは、東端の年木山の窯場の製品と似てるのが多いですけど、同じ広瀬山の広瀬向窯跡なんかは、天狗谷窯跡なんかの製品とよく似てるものが多いですね。

 とりあえず、こうやって、基準以下の製品が内山から排除されたってことです。ということで、本日はここまで。(村)

 

 本文に登場する山や窯場の位置

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