前回は、内山を海外輸出の拠点とすべく、内山未満の業者を外山へと移し、一方、逆にあまりに高級すぎて内山基準に合わない超内山業者も外山に出さねばってことで、岩谷川内山の最高級品技術が大川内山に移されたってとこまででした。
だから、大川内山は最高級品と最下級品を抱き合わせた窯場というわけです。というよりも、ほぼ最下級品のオンパレードの中に、チビッとだけ最高級品が混ざってるって感じかな。
窯場としては、日峯社下窯跡や御経石窯跡、清源下窯跡なんかがあって、ほぼ同時開業でしょうね。この中では、一般的に日峯社下窯跡が藩窯だったようなイメージが持たれてますが、3窯とも超内山レベルの製品は出土しています。
ここでは、内山の海外輸出の拠点化の話をしてる最中ですので、鍋島の話に脱線しだすと収拾が付かなくなるので詳しくは別途お話しすることにして、ちょこっとだけさわり程度に触れておきます。実は、日峯社下窯跡イコール藩窯のイメージが強いのには、ちょっとカラクリがあります。
日峯社下窯跡は、近年史跡整備計画の一環として年次計画で何度も発掘調査されています。それによって、焼成室は15室あり、超内山レベルの製品はちょうどまん中に当たる、下から6~9室付近の物原で出土することが判明しています。
この窯が最初に発掘調査されたのは、もう一昔前の平成元年(1989)のことです。その時、窯体のほかに物原の部分も少し掘っていて、今にしてみればそれがちょうど8室目の横あたりでした。つまり、最初から当たったんです。超内山レベルの製品も10数点くらい出土してて、「すわ、一大事!!」ってことで、俄然注目されることになったわけです。もし、別のとこ掘ってたら、掘っても、掘っても網目文碗だらけだったでしょうけどね。もちろん掘った部分も、ほとんどは網目文碗ではあるんですよ。
そんで、御経石窯跡や清源下窯跡も、昔むかしちょびっと調査してるんですが、御経石窯跡の場合は物原自体を発掘してませんし、清源下窯跡の場合も物原はわずかだけです。ですから、逆に超内山レベルが出土したってことの方が奇跡みたいなもんですが、一方、日峯社下窯跡の場合は、鍋島、鍋島、鍋島、鍋島ってことで次々に発掘するもんだから、一つはますますほかの窯と出土数に差が付いたってことです。
もう一つ違いがあります。鍋島様式は、岩谷川内山にはありません。つまり、大川内山でのオリジナルな開発品です。しかし、岩谷川内山にはないので、最初から鍋島様式の製品が作られたわけではありません。まあ、岩谷川内山の製品自体が、有田の中でも独特なクドさを持つ製品ですので、3窯ともそれを地で行くような超内山製品が出土してますが、御経石窯跡や清源下窯跡の場合は多くは青磁などに限られます。つまり、高台外側面に塗り潰し文様などを巡らす染付や色絵素地とか、いわゆる鍋島様式っぽいものは日峯社下窯跡でしか出土していないってことです。
この意味がお分かりですか??つまり、通常鍋島様式としてイメージされるような染付や色絵のものは、おそらく日峯社下窯跡で開発されたってことです。ただ、少なくとも後には鍋島様式は御用品の専用様式に採用されますけど、最初からそうだったという確証はどこにもありません。青磁の鍋島だっていっぱいありますので、御経石窯跡や清源下窯跡の製品だって広義の鍋島様式みたいなもんです。でも、やっぱすばり鍋島様式の染付や色絵素地があると、イメージ的に日峯社下窯跡イコール藩窯ってなるでしょうね。でも、くどいようですが、こんな早い時期に、鍋島様式の製品だけが御用品だったって証拠はどこにもないわけですよ。少なくとも岩谷川内山時代には、鍋島様式なんて存在しないわけですから、確実に違うわけですしね。大川内山に技術が移転した途端、鍋島様式だけが御用品専用様式になるなんてことがあるでしょうか。ほかのスタイルの製品の併用とか、ワンクッションあってもおかしくないと思いますけどね。一般的に、「鍋島様式」「御用品」専用様式って先入観がアリアリですからね。
う~ん、もっとクソ難しい話をしたいところなんですが、内山の海外輸出の拠点化から離れてしまいますので、ここではこれで止めときます。とりあえず、一般的に考えられているほどには、日峯社下窯跡だけが特別ってことではないってことです。おしまい。(村)
御経石窯跡
御経石窯跡
清源下窯跡
鍋島藩窯跡
清源下窯跡
鍋島藩窯跡
清源下窯跡
船井向洋「大川内山所在の窯跡発掘調査報告 – 日峯社下窯跡・御経石窯跡・清源下窯跡出土の初期鍋島について -」
『改訂版 初期鍋島』創樹社美術出版 2010より転載」