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有田の陶磁史(324)

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   前回は、大川内山の日峯社下窯跡や清源下窯跡、御経石窯跡の話をしてました。本当は3窯ともに同等レベルの超内山製品も焼いてる窯なのに、どうしても染付や色絵素地の鍋島様式の製品が出土する日峯社下窯跡が特別に思えてくるでしょ。御経石窯跡や清源下窯跡だって、白磁や青磁とはいえ、高台の高い製品も出土してますし、鍋島藩窯跡の類品もあるわけですから、大川内山らしい共通性はあるわけですよ。

 でも、少なくとも後には日峯社下窯跡的なスタイルの製品が御用品の専用様式になるもんで、どうしてもそっちが当初からいかにも御用品専用様式だったようなイメージを持たれやすいわけです。しかし、あくまでも日峯社下窯跡のような製品が御用品で、ほかの2窯のものはそうじゃなかったなんて客観的な証拠はどこにもないんですよ。それに、日峯社下窯跡は発掘もいっぱいやってますので、超内山レベルの出土製品数も多いので、引っ張られやすいってこともあるでしょうね。

 本当は、一気に鍋島の話をしたいところですが、これはこれでメチャ脳ミソ使わないと理解が難しい問題ですし、何度も言いますが、今は内山の海外輸出の拠点化の話をしてる最中ですので、とりあえず置いときます。続きです。

 それで、岩谷川内山の技術とは別に、もういっちょ超内山の技術があります。そうです。さんざん記してきましたが、喜三右衛門さんとこの「赤絵」の技術です。楠木谷窯跡発ですから、有田の最東端ではあるんですが、内山は内山です。こっちは、がっつり内山に食い込んでいる技術なんで、親和性が高い分、ほっとくと岩谷川内山の技術以上にやっかいです。

 かくして、この技術は有田の最東端から最西端の南川原山へとお引っ越しです。まあ、酒井田家一統は、寛永14年の窯場の整理・統合以前には、もともと南川原山…、正確に言えば当時は南川原皿屋ですけど、そこにいたわけですから、元の聖地に戻っただけってことではあるんですが…。

 前に記しましたが、この超内山レベルの技術が移転する前の南川原山というのは、超ド下手物生産の場所でした。寛永14年(1637)の窯場の整理・統合以前には、バリバリの中心地の1つだったんですが、窯業地としては一度オワッテしまい、その後、窯業界から追放された下手くそ陶工がもう一度やらせてねって過程で復活した窯場なので、よーするに二流いや五流産地みたいなもんだったわけです。この過程で復活するのが、下南川原山では南川原窯ノ辻窯跡で、上南川良山だと樋口窯跡ですね。たぶん上南川原山の源左衛門窯跡も昔むかしのわずかな採集品からはそうだと思うんですけど、全部茶畑になっていて壊滅状態で今は何も落ちてないのではっきりとはしません。まっ、でも後の文献史料にも一切出てきませんので間違いないでしょう。

 何度か触れてますが、承応2年(1653)の『萬御小物成方算用帳』が、具体的な窯場が分かる最古の文献ですが、この中には「有田皿屋」に含まれる「南河原山」と含まれない「南川原皿屋」という窯場が記されます。たぶん「南河原山」が後の下南川原山で、「南川原皿屋」の方が上南川良山でしょうね。復活したのは、これよりもう少し前の1640年代のことだと思いますが、南川原窯ノ辻窯跡の方は染付磁器とともに、う~ん、これでも一応磁器かな~って感じのものもっていうか、技法が磁器でなきゃ灰釉陶器ではって思えるような青磁なんかも多く焼いてますが、樋口窯跡の方は染付磁器も少しあるけど、大半は陶器とう~ん、これでも一応磁器かな~っていう鉄釉製品とかで占められています。

 そこにいきなり、バリバリの超内山レベルの技術が入ってくるわけですよ。

 まだまだ続きますが、長くなるので、本日はここまで。(村)

    超内山レベルの技術導入前の樋口窯跡(左)と南川原窯ノ辻窯跡(右)

  • 超内山レベルの技術導入前の樋口窯跡(左)と南川原窯ノ辻窯跡(右)


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