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有田の陶磁史(326)

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  前回は、「皿屋」とか「皿山」とかの話をしてましたので、肝心の南川原山にはまったくたどり着けませんでした。今日は、南川原山の話です。

 内山を海外輸出の拠点にすべく、内山未満レベルの業者は外山へと移動させました。内山を当時の主にヨーロッパレベルの製品の産地とするために、高級量産品生産の場所としたかったわけです。そうすると、内山未満もジャマですが、逆に、超内山レベルもジャマなわけです。そのため、高原五郎七さん発の岩谷川内山の技術は、大川内山に移転させました。

 しかし、超内山レベルの技術は、もういっちょありました。喜三右衛門さんちの赤絵の技術です。こっちは五郎七さんちの技術よりも、もっとやっかいでした。だって、すでに1650年代前半までに、五郎七さん系の技術を覆い隠すように、内山じゅうにこの技術が広まっていたからです。いや、技術的には、五郎七さんや山辺田窯跡のミスターXさん系の技術よりも、はるかにヨーロッパ向けの製品には向いてたんですよ。薄くて白くキリッとしたのが作りやすいので。でも、高効率生産を目指すためには、やっぱジャマです。原料を厳選して、手間ヒマかけて、丁寧に、ジックリ作られたんじゃたまんないですからね。そのため、喜三右衛門さん一統は、窯業地の東端の年木山(泉山)から、西端の南川原山へと大移動したってわけです。

 お話ししたように、それまでの南川原山はクソ下手物の産地だったわけですけど、これで一気に逆にクソ高級品の産地に一変するわけです。その際、大川内山は、超内山レベルと内山未満の中でも下の下レベルの生産を抱き合わせにしました。でないと、さすがに超内山レベルは独自に登り窯ひと窯運営できるほどの規模はなかったわけです。しかも、実際はひと窯じゃなくて日峯社下窯跡、清源下窯跡、御経石窯跡の3窯に分割ですからね。

 しかし、南川原山方式は、大川内山方式とは大きくスタイルが違いました。内山未満レベルと抱き合わせじゃなくて、山ごと全部超高級品の生産場所に変えてしまったんです。ただ、正確に言えば、段々そうなったって方が正しいかも…。この時できた新しい窯としては、下南川原山の柿右衛門窯跡と平床窯跡があります。既存の窯場としては、下南川原山の方が南川原窯ノ辻窯跡で、上南川原山の方は樋口窯跡です。この上・下南川原山の窯場の中で、最初からバリバリ最高級品を生産したのが柿右衛門窯跡です。酒井田柿右衛門家なんかも、まずはこの窯を使いましたってか、年木山からの移住中心メンバーによって築かれた窯でしょうね。

 ってことで、書いてたら、まだまだ続きそうな気がしてきたので今日はこの辺までにしときます。(村)

 

 

    地図240711

  • 1650年代後半頃の南川原山の窯場



 

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