前回は、内山を海外輸出の拠点とすべく、内山基準に合わない製品の業者を上下ともに外山に移したって話をしました。これによって、山による製品ランク別の生産体制が確立し、“内山”、“外山”という概念も確立したって話をしてました。いや~、内山・外山に“後の”を付けなくて済むのは、本当に心地よいですね。続きです。
こうして、スパッとものすごく内山の技術の平準化が図られたもんですからスッキリとしていいんですが、でも、現在研究とかする上では、ちょっと困ったこともあります。それは、逆にあまりに窯によるレベル差がなく均質なもんで、よほどその窯にしかない特殊なもんでもない限り、消費遺跡とか窯ではないところで出土したもんなんかは、どこの窯の製品だかゼンゼン見分けが付かないんですよ。ホントみごとなくらい。だから、皆さんもムリして内山のどこの窯の製品かなっなんて悩まない方がいいですよ。ムダですから。脳ミソ疲れるだけソン。それくらい均質ですから。まあ、かつては“肥前”って括りだったわけですから、“内山”という括りにまで絞り込めるようになっただけでも大進歩ってとこですからね。
ということで、代官の山本さんの策略した、内山の効率的量産化施策はおしまい!チャン・チャン!!…で片付いたって言いたいところなんですが、これで終わらないのが山本さんなんですよ。最後、これまでかってギュギュッともうひと絞りするわけです。
内山の上絵付け工程、つまり色絵磁器生産の工程も分業化しちゃったんです。この上絵付け専業業者を「赤絵屋」と言います。現在でも、有田の内山のほぼど真ん中に「赤絵町」って地区がありますが、この赤絵屋創設の際に業者を集住させた地区あたりを、お隣の幸平地区から分割して赤絵町という地区を新設したってことです。当初の赤絵屋は11軒で、その内9軒が赤絵町の範囲内にあったと言われています。その赤絵町にあった赤絵屋の1軒が有田郵便局の建て替えの際に発見された赤絵町遺跡で、赤絵町外の赤絵屋の1軒が上有田交番の建て替えの際に発見された幸平遺跡というわけです。
余談になりますが、もうかれこれ35年くらいも前になりますかね。赤絵町遺跡の発掘調査をしたのが。町の人からは、上絵付けは失敗なんてしないので、何も出るはずないって散々言われたのを思い出します。
本当に、有田の内山の調査って大変なんです。絶対に遺跡水没の覚悟はしとかないといけませんからね。水脈が浅いので、場所にもよりますが、1mちょっとくらい掘ると水がじわりと湧いてきたりするんです。なので、雨でも降ると、即水没します。そんで、その後お日様がギラギラしてくると最悪。天然サウナ状態です。
まあ、それはいいですが、赤絵町遺跡は町の人の期待に反して、残念ながら、色絵その他ザクザク出土したんですけどね。収蔵用コンテナ1,000箱以上出ましたからね。約1,000平方メートルでその数ですから、だいたい1平方メートル1箱ってくらいです。まあ、これが有田の町なかの遺跡での標準ってとこかな。コンテナ買うのに一度に100箱以下なんて、買ったことないですから。最高は一度に5,000箱以上買ったこともありますね。かつては、有田町ではコンテナも備品で、備品シール貼れって言われてたんですが、一発でそんな習慣吹っ飛びましたよ。5,000箱もシールなんて貼れるわけない。そんなに備品シールの在庫なんてないし。
とにかく、どこでもメチャクチャ遺物が出土するってのが有田なんですよ。登り窯掘ったら、さらにこのレベルじゃないですけどね。行政小さい。したがって、調査体制小さい。ついでに、整理作業や保管する箱物小さい。だから、有田の調査ってほんっと苦労するんですよ。考古学的調査で一般的な、人海戦術なんて使えませんからね。
完全に話がそれてしまいましたが、本日は、この辺までにしときます。(村)