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有田の陶磁史(329)

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   前回は、内山の窯業の再編成の仕上げに、内山の上絵付け工程を分業化し、業者を集めて赤絵町と称される地区を作ったって話をしてるところでした。脱線したので、内容については、ほぼ進みませんでした。続きです。

 この赤絵屋の制度がヨーイドンして完成するのはもちろん内山の窯業の再編の一環ですから時期的には同時並行で、だいたい1650年代の中頃から1660年代初頭頃までの間です。

 あっ!勘違いされると困りますので、念押ししときますが、この上絵付け工程の分業化は、あくまでもこの時点では、内山の話ですからね。昔は赤絵町の成立後は外山も含めて分業化されたみたいな話になってましたけどね。なので、やれ南川原山の酒井田家だけは特別だっただの、応法山で色絵陶片が出土すれば、すわ隠れ赤絵屋だのって話がまことしやかに語られていましたが、まあ、何か理由を考えないと収まりが付きませんので、単なるこじつけに過ぎません。

 何度もお話ししてますが、酒井田家は色絵の開発者じゃないですし、そんなもん、赤絵屋なんて道具や原料、赤絵窯とかいろいろ必要ですから、隠したってすぐバレてしまいますよ。この同業者だらけの有田みたいなところをナメたらあきまへん。マニュファクチャですから、従業員は全員窯焼きの工房に集まってやきものを作ります。人の口に戸は立てられませんからね。違法行為なんぞは、速効で伝わりますよ。

 外山の話が出たついでに、忘れるといかんので、赤絵町成立後の外山の色絵磁器生産の話を先にしときましょうか。

 前に話したように、古九谷様式の製品が生産された1650年代中頃までは、外山でも南川原山を除くほとんどの山で色絵磁器が生産されていました。ところが、これがパッタリとなくなるんですよ。正確に言えば、南川原山を除いてですけどね。

 外山は、従来通りそのまま本焼き業者である窯焼きが一貫生産してもOKのままなのに何でって思うでしょ。古九谷様式から引き続いて、そのまま作り続ければいいのにね。そうなんですよ。なぜだと思いますか?

 思い出してください。古九谷様式の時代までは、窯場によるランク分けはありませんでした。ですから、もちろん窯場によってうまいへたはありますが、一つの窯場で上・中・下の全部を一貫生産していました。でも、内山の再編に伴い、山ごとの製品ランク別生産に変わりました。

 そうすると、外山の場合は、南川原山を除いて、内山以下の生産場所に変わりますから、当時はまだ相対的に高級品であった色絵磁器は守備範囲外ってことになります。中級品以下の素地に上絵付けすることにもなりますからね。さらに、内山から初期伊万里みたいなのを作っていた人たちが集められるわけで、そういう人たちは従来から色絵は生産していなかったわけです。

 まあ、掲げればまだ理由は思い浮かびますが、とりあえず、こうして南川原山を除く外山から、一旦色絵磁器生産がなくなるわけです。あっ、忘れてました。南川原山のほかにも、大川内山でも色絵は生産されてるんでした。でも、短絡的に藩窯だからって考えるのは止めてね。当時から、大川内山だけが、唯一の御用品供給地だったって証拠はどこにもないんですから。要するに、一旦、内山以上の山しか色絵磁器は作らなくなったって話です。

 ということで、本日はここまでにしときます。(村)

 

 

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