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有田の陶磁史(330)

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   前回は内山の窯業の再編との関わりで、外山の窯場の色絵磁器生産の話をしてました。それまでほとんどの山で、古九谷様式の色絵が生産されていましたが、この制度改革に伴い南川原山と大川内山を除く外山では色絵磁器の生産がストップしました。

 くどいようですが、制度的にできなかったわけじゃないですよ。内山と違って、上絵付け工程の分業化には組み込まれてませんので、禁止されてたわけじゃないので。だから、南川原山や大川内山では、生産されているわけです。すぐに酒井田家や藩窯とからめて考えがちですが、何も南川原山や大川内山が特別だったからじゃありません。これらと外山のほかとの違いは、生産される製品のランクが違うことです。南川原山と大川内山のごく一部は、内山よりも上のランクの製品が生産されました。つまり、当時はまだ高価な色絵磁器は、内山以上しか生産されなくなったということです。そのかわり、内山ではバンバン生産するようになりますけどね。

 あっ、話す機会を逸するといけないので、ここで例の山辺田窯跡の古九谷様式の技術がどうなったかって話をしとくことにしますね。たぶん、してなかったような…??まあ、重複しても別に犯罪じゃないのでいいですが…。

 ほかの古九谷様式の技術の一次的導入窯である岩谷川内山の猿川窯跡と年木山の楠木谷窯跡の技術は、それぞれ大川内山と南川原山に移転して、その後改良が加えられ、鍋島様式や柿右衛門様式として完成しました。芯の部分は生き残ったってことですね。

 また、それぞれ一度有田全体に技術が拡散しましたので、内山などでは喜三右衛門さんちの年木山の技術の影響が色濃いとはいえ、五郎七さん由来の岩谷川内山の技術もチラチラとは残ったわけです。さらに、再編後は中級品を焼いた外尾山や黒牟田山では内山の劣化版みたいな製品の生産に変わりますので、色絵磁器はなくなりますが、喜三右衛門さんや五郎七さんの技術の名残はあるわけです。

 ちなみに、下級品生産の山では、広瀬山などはもともと初期伊万里様式と古九谷様式の製品が混在していて、そこから古九谷様式の技術が引っこ抜かれて、さらに内山の地域から初期伊万里様式を生産していた人たちが送り込まれているので、ほぼ初期伊万里様式が引き継がれたって構造になっています。また、応法山や大川内山は、制度改革で新しく設けられた山ですので、最初から初期伊万里の人たちの集合体です。ですから、まったく同時期の技術の影響を受けないってことはないので、多少は中級ランクの窯場に近い技術なんかも見え隠れはしますが、大勢としては初期伊万里様式が引き継がれたって感じです。

 じゃあ、肝心のミスターXさんちの山辺田窯跡の技術はどうなったかってことですが…、話したいのはやまやまですが、どう考えても長くなりそうなので今日はこのへんでやめときます。(村)

 

 

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