前回は、山辺田窯跡の古九谷様式の技術の行方を話すつもりでしたが、その前段の話をしてたら長くなったので、山辺田窯跡の話は今回に持ち越しました。続きです。
大皿生産を中心とした山辺田窯跡の古九谷様式の技術ですが、前回お話ししたとおり、それが普及した周辺の窯場が次々に宗旨替えをしていったわけです。外尾山の外尾山窯跡は、内山の劣化版生産みたいになっていきますし、山辺田窯跡に続いて古九谷様式の色絵大皿を多く生産した丸尾窯跡は、廃窯になってしまいます。また、広瀬向窯跡は古九谷様式の延長線上の技術を破棄して、初期伊万里様式調の製品に主体が移行します。つまり、古染付・祥瑞系や南京赤絵系のようなほかの技術系等と違い山辺田窯跡の技術は、外山以外にはほとんど伝播していませんので、まあ、言ってみれば丸裸状態です。
とは言え、それ以前に古九谷様式後期の色絵磁器大皿の主体というかほぼ全てが、素地に白磁を用いてるわけですから、外山の多くが色絵磁器生産から撤退した時点で、技術が意味を成さなくなります。日本磁器の場合は、型打ちも陰刻もない正真正銘の無文の白磁なんてほとんど需要がないですからね。
じゃあ、この外山の窯場で色絵磁器を生産していた業者はどうなったかってことですが、単純に色絵生産をあきらめた業者も多かったはずですが、一部は内山に移され、赤絵町で上絵付け生産に関わる経営者なり従業員になったはずです。そうすると、必然的に外山では陶工の数が減ったことになります。いや、正確に言えば減ってないと思いますけどね。むしろ、増えてるでしょうね。減った以上に、内山から初期伊万里様式関係の業者が移されてますので…。
なので、下級品生産の場合、応法山や大川内山が新設されてますし、広瀬山の場合は、広瀬向窯跡に加えて、香茸窯跡が新設されています。これだけでもなかなかのもんですよ。だって、香茸窯跡には登り窯が2基新設されますし、応法山には窯の谷窯跡、弥源次窯跡、掛の谷窯跡の3つの窯場ができますし、大川内山も日峯社下窯跡、清源下窯跡、御経石窯跡が開設されるわけですから。こうした窯場の製品は下級品ですからほぼ伝世しないのでなかなかピンときませんが、こうしてみると、17世紀後半にも初期伊万里様式調の製品が相当数作られていたことが分かりますね。
一方、山辺田窯跡の位置する黒牟田山や外尾山など中級品生産の山ですが……。
今日こそは、山辺田窯跡の話をするつもりだったんですが、また今日もたどり着きませんでした。申し訳ありません。次回こそはたどり着きますので、ご容赦ください。(村)