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有田の陶磁史(333)

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   なかなか先に進まなくて申し訳ありません。思い付いた時に書いとかないと忘れそうなので、つい脱線してしまいます。今日こそは、山辺田窯跡がらみの話をします。

 それでです…。前回お話ししましたが、窯数が増える下級品の山とは対照的に、実は、中級品の生産地となった外尾山や黒牟田山などでは、また違った動きがあります。窯数が減るのです。外尾山の場合には、外尾山窯跡は残りますが、丸尾窯跡が廃窯になります。また、黒牟田山では多々良の元窯跡は残りますが、山辺田窯跡は潰れます。つまり半減です。

 潰れてしまう山辺田窯跡と丸尾窯跡と言えば、古九谷様式時代には、いわば外山の雄。色絵の大皿生産量No.1と2ですから、内山の赤絵屋には、ここから陶工引き抜かないでどこからって感じですよ。しかも、下級品の山の場合、陶工が引き抜かれても、余りある陶工が内山から押し出されてきたわけですが、さすがにそういう人たちは中級品生産の山には不向きです。かくして、中級品生産の山は、陶工の数が激減したわけですから、登り窯の数も半減ってなるのも道理が通ります。

 じゃあ、中級品の生産減ったのってことになりますが、もともとこの当時の状況では、コンセプトが中途半端なんですよ。作られている製品が、上は内山製品の劣化版みたいなもの、下は下級品生産の山と似たようなもの…。ですから、もっと国力がついて国内需要でも伸びれば中級品需要も増えるはずですが、この時点では、まだまだ。どんな磁器かじゃなくて、まだ磁器であること自体に付加価値を感じる層には、下級品の山の製品で十分ですからね。

 ということで、その結果、山辺田窯跡の古九谷様式の技術がどうなったか?もうお分かりですね。空中分解、灰燼に帰すってとこでしょうか。跡形もなくジ・エンドです。

 でも、山辺田窯跡から内山に移った人なら技術を継承してるでしょ?って突っ込まれそうですが…。よく、よく考えてみてください。内山って、海外輸出、主にヨーロッパ向けの拠点とするために、わざわざ上絵付け工程を分業化したわけですよ。趣きを重んじる日本的美感ならいざ知らず、あの重苦しい寒色系の色調の色絵なんて、海外でウケるでしょうか?まっ、それ以前に、その転職した赤絵屋に持ち込まれる色絵素地は、どっぷりと喜三右衛門さんちの技術に浸かったピカピカのやつですからね。上絵の具も段々洗練されて色調が薄くなっていきますから、その素地にいくら寒色系の絵付けをしても、見た目は軽い!軽い!!とても、古九谷様式と呼べるもんにはなりませんよ。

 ということで、17世紀後半の有田の後継技術の柱として残った喜三右衛門さんちの技術。そして、それを補完するものとして、生き残った五郎七さんちの技術なんかと違って、山辺田窯跡のミスターXさんの技術は、途絶えてしまったってことです。

 以前、よく古九谷石川説の根拠の一つとして、古九谷様式と柿右衛門様式はあまりに違い過ぎて、変遷するはずがないってのがありましたが、ですから、山辺田窯跡の技術から柿右衛門様式が誕生したんじゃなくて、酒井田家の喜三右衛門さんの開発した南京赤絵系の技術を洗練して柿右衛門様式に発展したんだってばー。柿右衛門から柿右衛門ですよ。新旧を比べみると分かりますが、上絵の具の色調や線の繊細さ以外は、構図にしろ配色にしろ、まったく違和感ないですよ。だいたい、乳白色の素地自体は、楠木谷窯跡のものも柿右衛門窯跡のものも、肉眼では見分けが付かないくらいですからね。

 ということで、今回はやっと山辺田窯跡の頭出しができてホッとしました。(村)

 

 

 

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