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有田の陶磁史(334)

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   前回は、やっと山辺田窯跡の古九谷様式の技術がどうなったかって話ができて、空中分解したってことでした。ということで、ようやく本題の内山の話をしようかと思ったのですが、一つ話し忘れていることに気付きました。またかい?って言われそうですが、そう、またなんです。そのまま死んだフリしといても良かったんですが、これまでどこかの活字に書いてあるのを見たことないので、一応簡単に触れておこうかなって思います。

 それは、内山の赤絵屋の創設に際して、それまでの内山だけではなく外山からも業者を集めたって話をしてました。そうすると、たとえば外山の上絵付けの職人の一部は赤絵町に移ったってことでいいですが、何か忘れてませんか…??

 そうです。色絵磁器の製作は上絵付けするだけじゃありません。その前に素地を製作する人がいて、それに上絵付けをするわけです。その素地を作ってた人たちは、もちろん色絵素地ばっか作ってたわけじゃないので、色絵素地はやめても染付製品とかに注力すればいいだけです。

 でも、たとえば山辺田窯跡や丸尾窯跡のように、いっぱい色絵磁器を生産してたとこでは、ごっそりとその分の素地の生産なくなるわけなので、だから、前回お話ししたように、中級品の生産山などでは窯数自体が半減するわけです。そうすると、やりくりはしたでしょうが、必然的に作ってる人がだぶつき気味にはなりますよね。今まで歯車が全部かみ合って回ってたのに、合理化により、歯車余っちゃったってとこですかね。

 という前提の元に、ちょっとおもしろいことがあります。というのは、ちょうどこの頃、色絵磁器の生産が有田以外でもはじまります。有田の近くでは、嬉野市の吉田皿屋です。佐賀藩内ではありますが、有田のように本藩領ではなくて、蓮池藩という支藩領です。印判手仙境文大皿なんかがよく知られてますが、伝世品の写真を掲載できないので、どういうものか分からない方はググってみてください。(https://www.facebook.com/kyuto.saga/posts/2677226252322899/?locale=ar_AR)。それから、よく知られてるのは石川県の九谷ですね。ついでに、広島県福山市の姫谷焼なんかもそうです。ちなみに、これ以外に17世紀の間に、本州に技術が流出した例はありません。

 そういえば、かつては九谷古窯の技術はいずこからってみたいな話がありましたが、そんなもん肥前地域しかありませんよ。だって、九谷古窯のような連房式登り窯はもともと肥前のオリジナルで、中国にも朝鮮にもありませんし、窯詰め方法が李朝風ってのも肥前そのものですからね。窯道具も同じです。

 そう言えば、忘れてましたが、前に山辺田窯跡の古九谷様式について話した際に、九谷古窯の技術は、山辺田窯跡の伝統的な技術を受け継ぐ、白磁素地を用いた寒色系の絵の具を用いる上質なタイプではなく、ほとんど伝世しない多くは赤絵の具を使うタイプの技術が移転したのではってことを説明したような??ただし、山辺田窯跡の技術が移転したんであっても、いつでも移転が可能だったってことはないわけで、そこには歴史的必然性が不可欠なわけです。必然性なんて言うと、鍋島家と前田家の姻戚関係がどうのこうのって話になりそうですが、そりゃ、九谷のことだけ考え過ぎでは??じゃ、ほぼ同じ頃に流出している姫谷は…?吉田は…??ってなるでしょ。共通の理由が必要じゃないですかね。やっぱ経済活動ですよ。それぞれの藩だか商人だか知りませんが、儲けようと思ったんじゃないですかね??うまくいけば続くし、いかなければ短期間で廃窯って、それだけの話です。

 って書いてたら、だいたい予定の文字数になってきましたので、続きはまた次回ということで。(村)

 

 

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