前回は、楠木谷窯跡ではじまった南京赤絵系の古九谷様式では、最初から白磁を素地とする色絵が作られたって話をしてました。そして、肉眼で見る限りでは、それは質的には、柿右衛門様式の製品の素地である濁手と見分けが付かないことに触れました。ついでに、でも、濁手っていう用語の誕生経緯から、現状では、楠木谷窯跡の素地を濁手と呼ぶことはできないってことでした。続きです。
古染付・祥瑞系や万暦赤絵系の古九谷様式の製品には、もともと無文の白磁素地をボディーとした色絵はなかったということをお話ししました。つまり、色絵素地として白磁が使われるようになるのは、南京赤絵系の古九谷様式が誕生した正保4年(1647)頃以降ということになります。
前に触れた話を覚えてらっしゃると思いますが、1650年代前半に“赤絵”がくわっと有田じゅうに広まったんでしたね。ここのマニアックな読者の方ならご存じかと思いますが、17世紀後半、特に1660~70年代頃の色絵磁器を想像してみてください。染付併用素地もないとは言いませんが、多くは素地に白磁を使ってますから。これは“赤絵”、つまり南京赤絵系古九谷の影響です。
古九谷様式の話に戻しますが、その量産窯としては、やはり山辺田窯跡が最もよく知られています。最初は高台内とかに染付二重圏線を入れるものにはじまり、後には一重やないものに変わるということは、ご存じの方も多いというか、たしか前にもお話ししてるかと思います。でも、普通はこの変わるって事実を知ってめでたしめでたしってことで、じゃあ、なぜそうなるのかってとこまでは考えないって方がほとんどだと思います。では、あえて、なぜだと思いますか?まあ、今までの話の中で、白磁素地に関しては、当然染付圏線はないわけですが、これは南京赤絵系の影響かなってのは、容易に思い当たるだろうと思います。じゃあ、高台内一重圏線はどうでしょう?
実は、山辺田窯跡の高台内一重圏線の製品の場合、外面腰部にも一重圏線を配すものが多く見られます。ところが、例の百花手など山辺田窯跡のオリジナルな技術の製品には、腰部に圏線は配されていません。実は、これも南京赤絵系古九谷の影響なんです。
山辺田窯跡では、高台内二重圏線から、一重やないものに変化するって説明しましたが、同じ南京赤絵系の影響ですから、二重から一重、それからないものになるわけじゃないですよ。あくまでも、二重圏線から一重やないものに変化するってことです。
ということで、続きをお話ししたいのはやまやまですが、長くなるので続きは次回。(村)