文字サイズ変更 拡大標準
背景色変更 青黒白

有田の陶磁史(335)

最終更新日:

   前回は、ちょうど有田で内山に端を発する窯業の再編が起こった頃…だと思いますが、ほぼ同時に…だと思いますが、なぜか佐賀県嬉野市の吉田皿屋や石川県の九谷、広島県福山の姫谷などでも色絵磁器の生産がはじまったって話をしている最中でした。果たして偶然なんでしょうかねぇ?

 とりあえず、九谷古窯の技術は、多くは赤絵の具を使う山辺田の下級色絵の技術が移転したのではってところまで話してました。続きです。

 ちなみに、九谷の場合、もともとは九谷のお宮に奉納されたもので、発掘調査報告書によれば、現在は東京の富岡八幡宮に所蔵されているという花瓶に「明暦元年(1655)六月廿六日田村権左衛門」の銘のものがあり、塚谷澤右衛門『茇憩紀聞』(1803)という古文書には「(前略)九谷の宮に花瓶一對あり、田村権左衛門明暦元年六月十六日と藍にて有。是は焼もの手初に此花瓶を焼、奉納したると伝傳。(後略)」とあります。

 つまり、この文書のとおりであれば、九谷の窯場は明暦元年頃に開かれたことになりますね。石川の地元では開窯時期に関する説はいくつかあるようですが、有田の窯業技術に基づいて九谷古窯の開窯時期を推測するとすれば、まあ、この明暦元年なんてのはドンピシャってとこですね。つーか、有田の技術が移転しているのは間違いないので、これより前でも後でも都合がよろしくありません。窯構造や窯道具、出土した製品などのすべての技術に矛盾しない時期を考慮するなら、どう見ても、1650年代前半頃に有田で使われた技術が移転したとしか考えられませんから。

 そうすると、やっぱこれまでお話ししてきた有田での窯業の再編の時期と、ジャストフィットじゃないですか。この時期なら、体制からあぶれた陶工いますからね。生産体制もだんだん強化されていきますが、皿屋代官の制度が設けられたのがようやく正保4年(1647)の12月のことですから、まだまだユルい時期です。ですから、これならちゃんと歴史背景の中に落とし込めるということです。

 ただ、九谷古窯はたぶん山辺田窯跡の技術ではって言いましたが、九谷古窯の出土品に使われてる技法というかクセというか特徴というか、そういうものを考えると、山辺田窯跡でないとしても同じ黒牟田山の多々良の元窯跡とか、百歩か千歩譲っても広瀬向窯跡止まりで、その程度しか候補がありませんね。だって、以前説明したと思いますが、白磁大皿焼いてる窯場自体がかなり限られますので。

 もちろん、丸尾窯跡なんかは、大皿いっぱい焼いてますが候補にはなりません。高台とか、製品の作りがもっと内山チックでゼンゼン違いますので。だから、九谷は少なくとも黒牟田山の技術の可能性が最も高いと思います。

 続いて、吉田や姫谷については…ってお話ししたいところですが、まだダラダラと長くなるといけないので、本日はこの辺までにしときます。(村)

 

このページに関する
お問い合わせは
(ID:2729)
ページの先頭へ
有田町役場 文化財課

〒844-0001 佐賀県西松浦郡有田町泉山一丁目4番1号

電話番号:0955-43-2678

FAX番号:0955-43-4185

© 2024 Arita Town.