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有田の陶磁史(336)

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   前回は、九谷古窯のはじまりは、明暦元年(1655)くらいでいいんじゃないですかねって話や、たぶん山辺田窯跡や多々良の元窯跡などのある黒牟田山の技術が移転したと考えて、間違いないと思いますってことなどを話してました。そうすると、1650年代中頃から60年代初頭くらいの間に行われた、有田の窯業の再編時期とピッタリ!!この時期なら、色絵素地作る人がだぶついてますからねってことでした。

 九谷古窯の場合、黒牟田山の技術ではあっても、外尾山の丸尾窯跡なんかの技術じゃありまへんって言いました。丸尾窯跡って、黒牟田山の技術と比べて、もっと内山っぽいんですよ。

 でも、むしろ嬉野の吉田なんかは、かなり丸尾窯跡の可能性はあるかもですね?もちろん、地元の陶石を使ってるので、質的には野暮ったいですが、技術的にはまるで黒牟田山の匂いがしませんので。

 視点を変えれば、吉田の場合は、技術的に丸尾窯跡でなければ内山の窯場としか考えにくいです。でも、内山に大皿いっぱい焼くような窯はありませんけどね。もちろん、1点も焼かなかったなんてことは言いませんよ。でも、技術の移転先で大皿いっぱい焼いてるんでしたら、もとから焼いてたって考えるのが自然でしょうから。

 一方、姫谷はその逆です。技術的には内山っぽい要素が多いんですが、そうでなければ丸尾窯跡って感じ。その両方に近い要素があって、なかなか決定打がありませんね。色絵とかの伝世品見ると、内山っぽいんですが、特に変形皿とか染付入り素地とかは外山の窯場にはほとんどないですし。

 伝世品じゃなくて、窯跡の出土資料見ると、もっと迷いますね。伝世品と違って、その窯の普通のものの割合が高いので。たとえば、窯詰めの際の窯道具の中で、磁器質の逆台形ハマが出土してますが、1650年代前半までの外山の窯場には少ないですから。

 でも、スパッと割り切れないのは、一つは大ぶりな高台内蛇ノ目釉剥ぎの青磁皿とか。普通は、内面に陰刻文様入れるやつです。あんなもん、生産しているのは、丸尾窯跡や外尾山窯跡、山辺田窯跡、多々良の元窯跡、広瀬向窯跡とかが圧倒的な割合ですから。それに、サヤ鉢はごくわずかな粘土紐成形のものを除いて、古い技術である轆轤成形のもので占められています。内山では、1650年代前半までに楠木谷窯跡の技術の影響が大きくなるので、サヤ鉢はほとんど粘土紐成形のものに変わってしまいます。でも、外山の窯場では同じ時期に、まだまだ轆轤成形のものを使ってます。つーか、その頃になると、外山の窯場でサヤ鉢使う窯が丸尾窯跡とか外尾山窯跡とか限られてきますけどね。

 たとえば、山辺田窯跡なんかの場合は1640年代頃にはサヤ鉢使うんですが、1650年代頃になると、染付製品の劣化が著しくて、サヤ鉢使うもんなんてなくなってしまいます。多々良の元窯跡も同様です。古九谷様式の製品の場合も、素地がキレイなもんの割合は急低下するんですが、だいたい外山の窯場の場合は大皿とかが多いので、もともとサヤ鉢になんて入りませんよ。

 たしか、記憶が確かならば、山辺田窯跡の全出土サヤ鉢の中で、粘土紐成形のものは、1、2点だったと思います。3、4点ならゴメンナサイで、5点は絶対ありませんって程度です。

 ということで、姫谷は少なくとも黒牟田山とかじゃないですね。もっと、喜三右衛門さんちの技術の影響が強いです。丸尾窯跡と楠木谷窯跡や内山の陶工がいっしょに行ったってことが成り立つなら、それが一番シックリきますけどね。両方とも、1650年代中頃に窯場自体が消滅しますしね。まあ、証拠はないので単なる妄想です。

 ということで、本日はここまでにしときます。(村)

 

 

 

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