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有田の陶磁史(338)

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   前回は、嬉野の吉田はともかく、九谷や姫谷って絵付けの職人は行っててもちょっとだけなんじゃないでしょうかって話をしてました。有田と似てるようで似てないんですよ。

 姫谷については、絵付け技法の源流について語られることはほぼないですが、伝世する変形皿なんかが分かりやすいですが、明らかに成形も絵付けも有田磁器を手本にしてますね。でも、何となく絵の感じは違うんですよ。

 そういえば、たしか石川の方ではずっと前から、九谷古窯の絵付けは、有田じゃなくて京焼の影響だって言われてるんでしたね。まあ、そう見ようと思えば見えなくもないものもありますが、どうなんですかね??もうちょっと似せたらどう?って感じの有田磁器の絵にも見えるんですけどね。九谷古窯の製品にまで、ゲージュツセイを求めないといけないんですかね?有田と同じように、単なる工業製品だと思うんですけど…。だったら、わざわざ陶器の絵付けに似せなくても、先進地の磁器の絵を手本とするのが筋だと思うんですが。だって、時代が下がって技術が伝播したような地域でも、磁器はみんな有田の製品に一生懸命似せようとしてますよ??製品のランクによっては、有田を摸した波佐見を摸すみたいなことはありますけどね。

 それはともかく、まあ、考えてみれば、主に黒牟田山や外尾山の人たちが移ったって想定してみれば、当時そうした外山で生産されていた色絵素地にはほぼ染付はないわけです。そうすると、外山の窯場が色絵磁器生産から撤退したり廃窯した場合でも、色絵以外が同じ生産量だったとすれば、色絵素地生産がなくなる分、作る方の人はだぶつくけど、絵付けの人の方はそうではないってことになりますよね。だから、絵付けの人はあんまり行ってなくても、数的には合うかもです。

 もっとも、そんな記録があるわけじゃないので正確なことは分かりませんけど、あれだけボディーには有田風の技術が使われてるのに、有田の人が行って描いたにしては、絵柄の方はすんなり入ってきませんねって話です。まあ、でもたまにザ・アリタって絵付けの製品もないわけじゃないので、そういうのは有田から行った大先生が描いたのかもしれませんけどね。単なる妄想ですけど…。

 その他、磁器生産を興すには、そもそも分業ですから、いろんな工程の人が必要です。たとえば、窯築き(かまつき)さんや窯焚きさんも一時的には行ったかもしれませんが、まあ、現代の作家さんなんかでも、自分で登り窯築いて、自分で焼いてたりしますから、多くの工程は専門の人たちが行かなくてもできないわけじゃないです。

 いずれにせよ、それまで窯業の基盤のなかったところで登り窯運営しようと思えば、かなりの人数が行かないとムリでしょうね。やきもの作りというと、何だか山奥で細々と陶工が作ってるみたいなイメージを持たれがちですが、磁器は最初から組織的というかチームプレーですからね。たとえば、九谷古窯の1号窯でも焼成室が12室以上ありますから。12室分窯詰めするだけの製品を作るのは、少人数ではちょっとキツイですよ。だって、現代の個人作家さんが登り窯造る場合は、ほとんどが焼成室は2、3室程度ですし、1室の規模もずっと小さいですからね。

 ということで、この話は一応これで終わりにしときます。(村)

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